東京市直営小学校の教育[図5][図6]

290 ~ 292 / 370ページ
 明治39年(1906)5月に「市直営小学校」として開校した芝浦小学校(後に改称)は、その特色として、一般の小学校が月額20銭の授業料を徴収したのに対し、無月謝であり、紙、筆などの学用品の給与、傘、下駄など日用品の貸与をした上、時には児童の被服、食料、労働賃金の補給までした。校内に浴室を設置し、毎週1回児童を入浴させたり、診療や治療、眼病予防の点薬など、児童に対する衛生医療の活動も実施した。
 児童の着衣の洗濯、縫いから裁縫の授業が始まり、男児の頭をバリカンでかり、女児の髪をすいてやるといった状況の中で、特別工作として男児には楽焼玩具の製作を教え、女児にはレース編みを教えて製品を作り販売した。
 

[図5]芝浦小学校(後の竹芝小学校)平面図

 

[図6]特殊尋常小学校建築申請(東京都公文書館所蔵)

 一般の学習は、「小学校令」及び「施行規則」にのっとって行われたのだが生活に恵まれない子弟の就学維持のため、家計補助と職業訓練を目的とした「特別作業」という学科を設置していた。「特別作業」とは、学校内で課外時間に作業を課し、それに対して工賃を支給するものである。そのほかにも、煙草(たばこ)のパイプの蝋(ろう)づけ、養蚕(ようさん)の蛾箱作りとかで1日4、5銭から14、15銭の現金収入を得させるといった方法がとられていた。その活動のための手工室や作業場を備えていた。
 芝浦小学校は、就学定員560人を予定して開校した。開校当初は入学者の不振が懸念(けねん)されたが、入学者は漸次増加した。そのため、午前に授業をして午後に仕事をするもの、午前に仕事をして午後に授業をするものに分け、更にその後、義務教育年限の延長に伴なって、5、6年児童のため普通夜学部も開設したため、3部教授となった。学校運営や教員の苦心や努力も多かったと思われる。
 作業場や工作室を特設して職業訓練を兼ねた生産活動をとり入れ、あわせて家計を助けるという特色ある教育であり、後の作業教育や勤労教育に通じる面もあった。経済的な理由もあったとはいえ、この共同生活や勤労や作業を通じて学びとったものは多く、学校生活の魅力も増し、就学の意欲も増したものと思われる。継続的な生産作業に励み、収入も得るという体験を通して、産業と生活への関心を芽生えさせ、深めていくことができたであろう。