明治32年、諸学校制度の改革と共に「中学校令」から分離独立した「高等女学校令」が公布され、
本令ノ規定ニ依ラサル学校ハ高等女学校ト称スルコトヲ得ス(第18条)
とした。高等女学校は
賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為(ナ)スニ在リ、故ニ優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵(カン)養スルト倶(トモ)ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス
と説明され、中流以上の女子の教育の場であることが明示された。明治21年に創立された東京府高等女学校は、明治34年府立第一高等女学校と改められた[注釈1]。現在の都立白鴎高等学校の前身である。明治33年、小石川区竹早町に府立第二高等女学校(現在の都立竹早高等学校の前身)が開設された。
[図1]東京府立第三高等女学校・明治末期
明治34年12月、文部大臣は府立第三高等女学校(現在の都立駒場高等学校の前身)設立を認可、同35年4月に開校と決定した[注釈2]。同年2月、府知事が学校設置を告示、3月青森県師範(しはん)学校長であった小林盈が初代校長に就任、4月、麻布区鳥居坂町の私立東洋英和女学校の校舎を借用して仮校舎とし、第1回入学式を挙行した。入学者は280名であった。
同年8月28日、麻布区北日ケ窪に新校舎が落成し、9月よりこの本校舎での授業を開始した。以後、昭和20年(1945)の空襲で校舎全焼し、翌21年9月に目黒区駒場の旧兵舎跡に移転するまで、この地を校地とした。
明治38年(1905)に第1回卒業式を行った。卒業生は65名であった。
教育の方針として、当時女子教育として一般的であった「婦徳の涵養(かんよう)」「良妻賢母」ばかりでなく「強い、自主独立の精神」を目指し、他にみられない特色をもつ学校であったといわれている。