宗教系中学校・女学校

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 明治後期、港区地域にあった私立中等学校中、キリスト教系学校[図2]は大きな試練に直面した。それは明治32年(1899)8月公布された「私立学校令」とそれに続く「文部省訓令12号」とに関わるものであった。すでに教育勅語の渙発(かんぱつ)などによって国家主義的教育の強化をはかってきた政府は、外国ミッションの布教活動や教育活動が自由化し活発化することに憂慮を示した。
 

[図2]港区地域のキリスト教系中学校

 「私立学校令」の目的の一つは、外国人による学校経営を禁止することにあったといわれる。結局この条項は取り除かれはしたものの、「文部省訓令」という形で、学校における宗教教育や行事の禁止が同時に公布されたのであった。
 「私立学校令」の中には、これ以外にもキリスト教系の学校にとって、その存在を脅かす条項があった。
 その一つは、第5条による
 
  私立学校ノ教員ハ相当学校ノ教員免許状ヲ有スル者ヲ除ク外其ノ学力及国語ニ通達スルコトヲ証明シ……
 
という規定であり、もう一つは、第7条の
 
  私立学校ノ校長又ハ教員ニシテ不適当ナリト認メタルトキハ監督官庁ハ其ノ与ヘタル認可ヲ取消スコトヲ得
 
ということである。日本語に通達しない外国人教師をもつ私立学校に対し、認可取消しもあり得るという解釈ができるものであった。
 また、第8条によれば
 
  私立学校ニ於テハ公立学校ニ代用スル私立小学校ヲ除ク外学齢児童ニシテ未タ就学ノ義務ヲ了ラサル者ヲ入学セシムルコトヲ得ス
 
とし、父母から就学義務免除を願い出て許可された児童の場合と、市町村の代用小学校と認められた場合のほかは、私立学校において小学校教育を施すことはできないとした。キリスト教系学校のうち小学校に相当する課程をもっていた学校は、これを中止せざるを得なくなるわけであった。
 この訓令によって、キリスト教系学校は、宗教色を一掃するか、あるいはキリスト教を堅持して、公認学校としての特権を放棄して各種学校となるかの選択をせまられたのであった。港区地域のキリスト教系各学校は、それぞれの立場から対処を余儀なくされた。
 当時港区地域のキリスト教系学校は次のとおりである[注釈3]。
 
関連資料:【くらしと教育編】第14章第1節 キリスト教学校における外国人宣教師と学生の交流