■東洋英和女学校[図3]

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 カナダ・メソジスト教会によって女子校として創設されたこの学校は、開校直後の隆盛を経て、明治22年以降、生徒の減少が報告されている。その年、在校生225名、翌23年142名、翌24年84名、25年には70名にまでなった。社会の西欧化に対する反動と国家主義の教育の強化によるものであり、同時に他の女学校の開校による通学生の転校という事情もあった。
 

[図3]東洋英和女学校・明治33年(『東洋英和女学院百年史』)

 キリスト教の伝道とキリスト教的人間形成をめざした学校の方針により、学校生活の中にはキリスト教行事が組まれ、生徒自身による宗教活動も活発であった。その中心的な活動の共励団体として「王女会」も組織された。
 更に生活困窮者のための日曜学校は、教会の教育的伝道の域を超えて、生活困窮者救済を意識した、児童のための教育機関へと展開していった。明治27年ころに創立された恵風女学校がそれである。麻布一本松にあり、東洋英和女学校長監督の下にあった。
 東洋英和女学校の修業年限は予科3年、本科5年である。
 明治31年、校舎新築の議が起り、1万2000円の支出で東鳥居坂の本山漸の所有地を購入し、工事に着手し、同33年秋落成した。この間、同32年に「高等女学校令」が公布されたため、東洋英和女学校では、それまでの高等科に相当する補充科を設け、予科の修学年限を4年に延長した。生徒教も漸次増加の様子を見せていた。
 「私立学校令」及び「文部省訓令12号」が公布されたのは、校舎新築、学則改正のさなかであった。しかし、東洋英和女学校としては、影響はないであろうとの判断をとり、10歳未満の生徒3名を退学させる手続きをとるのみで、校舎新築は推進された。
 明治32年9月「目的更生開申」の届を提出した。
 
 一 目的 本校ハ基督教主義ヲ本トシ倫理其他日常必要ナル諸学科ヲ教授シ才徳優良ナル婦女ヲ養成スルヲ目的トス
 
 これまで設置の目的にも学科目にもキリスト教に関する記述をしなかった当校が、この機に「基督教主義」をはっきりとうち出し、建学の精神を明らかにしたのであった。そして、かえって問題となる上級学校進学資格については、自校のなかに高等科をもつことによって一応解決し、更に政府認可の高等女学校に準ずる体制を整えていくことになった。
 「私立学校令」により、一応尋常小学校課程を除き、在校生3名を退学させたものの、翌33年には再び同様の生徒10名を入学させ教育していたという(『東洋英和女学院百年史』)。
 
関連資料:【文書】私立・諸学校 東洋英和学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 東洋英和学校 尋常中學科設置願