宗教と特別な関わりを持たない男子の中等教育機関として、攻玉社(こうぎょくしゃ)、慶応義塾、正則の3校、女子の学校として山脇・東京女子の2校があげられる。
■攻玉社中学校
文久3年(1863)に発足した攻玉社の主流が、明治32年(1899)の「中学校令」改正によって攻玉社中学校として発足した。これに至る経緯には三つの流れがあった。
一つは、文久3年(1863)に発足して、中年部、壮年部と称し、次に青年科と称し、次には本科、高等本科とし、明治26年(1893)に尋常中学校と称したもの、他の一つは、明治6年に発足した幼年科で、同21年には一等予科とも称し、同30年、海軍中学校予科としたもの、更にもう一つは明治22年海軍志願者のための別科で、同24年には海軍兵学校予備科、同28年には海軍予備校、同30年、海軍中学校と称したもので、この三つの流れの内容が総合大成されたのが攻玉社中学校であった。
このほかに専修数学科と女子科もあったが、明治30年ころに廃止された。土木科は同31年に夜間授業にかえた後、教授内容を整え教授陣も強化されて、同34年には工学校と改称し、全盛期を迎える。中学校は明治末年になって文部省の型にはまったものとなり、独自の教育の姿を失っていった(『攻玉社百年史』)。
■慶応義塾普通部
大学部設置を決定した明治22年から、同31年5月に大学、中学、小学の一貫教育体制が整えられるまで、従来の高等科、普通科、別科を総称して普通部として取り扱われていた。
明治27年に公布された「高等学校令」により、尋常中学校の修学年限は5カ年、高等中学校3カ年となったが、義塾の正科予科は2年8カ月、本科3年4カ月、合計6年で、修学年限が2年少なかった。
そこで、明治29年6年制の正科を廃し、高等科3年、普通科5年と改め、普通科を尋常中学校の課程に該当するものに改めた。ただし、普通科から高等科に進むものは、7カ年とした。また、普通科別科は、比較的年長者で速成に英書を学ぼうとする者のために設けられていたが、明治30年に廃止されている。
中学校の課程としての普通部の名称は、明治37年7月より用いられたものである(『慶應義塾百年史』)。
■正則中学校
明治22年、米国留学から帰国した人々を中心に
将来大学校ノ高等教育ヲ受ケントスル者ニ善良ナル予備教育ヲ授ケテ日本人ヲシテ其真面目ヲ顕ハサシメン事
などを目的として、正則予備校が芝公園安養院に設立された。
明治25年、正則尋常中学校と改称し、はじめて5年制をとり、財団法人組織とした。生徒数は450名前後になっていた。
明治32年、正則中学校と改称した。これは、同32年の中学校令改正によるものであった(都史紀要『東京の中等教育』)。
■山脇高等女学校
明治39年、牛込区白銀町にあった女子実修学校が、赤坂区檜町(ひのきちょう)に敷地を購入し、高等女子実修学校として移転した。
明治41年、組織を変更して山脇高等女学校と改称、修学年限本科4年、家事専攻科2年とし、生徒定員本科350名、家事専攻科150名であった[注釈8](『山脇学園学校案内』)。
■東京高等女学校
教養と新知識、行動力兼備の女子育成を目的として高等女学校設立の計画がたてられ、芝区三田四国町の旧水産講習所の建物を購入修理し、明治36年私立高等女学校として認可された[注釈9]。
当時、東京府下における高等女学校は官立1校、府立3校という状況であり、私立高等女学校としての設立は、この東京高等女学校が最初のものであった。「高等女学校令」にのっとり修学年限は本科4年、補習科1年のほか、技芸専修科2年を置いた。初年度の生徒数は、本科、技芸専攻科合わせて83名、教員数11名であった。
翌37年、技芸専修科を改め、技芸女学校として新たに設立した。特殊技能の履修時間を多くし、従来の専修科の目的を達しようというものであった。修学年限は普通科、選科、別科とも各2年であった。別科では点茶、挿花、弾琴などをその内容としていた。さらに、明治44年からは修学年限1年の実習科を設け、高等女学校、技芸女学校の本科、普通科の卒業生を対象に、実践道徳に基づく応待の礼節を教え、家事裁縫に熟達させ、一家の主婦としての実力養成をめざし、当校の特色を発揮したのであった(『東京女子学園八十周年史』)。
関連資料:【文書】私立・諸学校 慶応義塾
関連資料:【文書】私立・諸学校 正則予備校付属尋常小学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 私立山脇高等女学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 私立東京高等女学校