これまで見てきたように、港区地域には多くの私立教育機関があり、中等教育機関として成果をあげていたが、その多くは事情があって制度上中等学校としての認可を得ない各種学校としての地位に止まっていた。明治38年に、中学校として港区地域にあったのは、正則、芝、攻玉社、高輪、麻布の5校、高等女学校としては東京高等女学校1校のみであった。
■戸板裁縫学校[図6]
明治35年、芝公園の一角に創立された当初は、教室2部屋、教師1人の裁縫塾とでもいう程度のものであったというが、開校時40名もの入学生があった。翌年には80名、その翌年には150名という繁栄ぶりであった。このことは、横浜のフェリス女学校に学んだ創始者戸板関子の新しい指導法と、女子に実用的な教育を要求した時代背景とによるものであった。
修業年限は半年であり、短時日に技術を身につけた卒業生が、着物の仕立てなどで高い収入を得ていた。個人指導による練習を経て熟練をまつそれまでの指導と異なり、「一斉教授法」に「分解法」、そしてスピード化に重点を置いた「迅縫法」など、独創的な指導を行い、短時日に技術を習得させていった。当時の女学校の多くが、中上流層の子女を集めていたのに対し、一般庶民の子女のために、実用的な教育を目ざしていったのである。
開校2年後の明治37年には、三田四国町に新しい用地を求めて移転、200名以上の生徒の受け入れが可能となった。その後も生徒は増加し、明治41年には予科と研究科が、同44年には高等科(のちの高等師範(しはん)科)が新設され、翌45年には夜間部も設けられるようになった。このような裁縫学校の隆盛を経て、大正5年(1916)の三田高等女学校設立となるのである(『戸板学園八十周年記念誌』)。
[図6]裁縫学校の授業・明治35年戸板裁縫学校
各種学校としてあげられる主な学校は[図7]のようになる。
[図7]港区地域の各種学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 私立三田高等女学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 私立三田高等女学校名称変更