青山師範学校[図9]

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 就学児の増加に伴う教員の不足を解消するため、様々な教員養成の道を開いてきた東京府師範学校は、女子師範学校を独立させることとし、明治30年(1897)、東京府会は、師範学校校舎を新築することを決議した。新校舎敷地として、豊多摩郡中野町を始め、小石川区老松、関口等数カ所を選定したが、曲折を経て、同33年4月、赤坂区青山北町5丁目に決定した[注釈11]。この地は、赤坂見附と渋谷を結ぶ尾根道に沿い、周囲に善光寺始め寺院も多く、田畑も広がる絶好の地であった[図10]。
 

[図9]青山師範学校・明治33年

 

[図10]明治18年ころの青山北町付近

 敷地面積1万2000余坪、建物2800余坪、敷地買収費、建築費合計28万6000余円、うち建築費は18万6682円43銭5厘であった。明治32年に着工、物価騰貴(とうき)のため予算を追加、翌33年8月校舎の一部が完成、男子のみが移転、収容され、これまでの小石川竹早町の校舎は、独立した女子師範学校となった。明治34年3月には、校舎全部が落成、男子師範学校と附属小学校となり、東京府下に男女両師範学校が併立することになった。明治41年、教員の養成を強化するため豊島師範学校を増設するに伴い、東京府師範学校は、青山師範学校と改称した。
 東京府師範学校には、教員養成を急ぐため講習科もおかれていたが、明治37年これを廃し、小学校教員講究会を設け、各教科教授法や実業科目等について講究させた。 明治41年、東京府は、青山師範学校、女子師範学校に豊島師範学校を加えて教員の養成に力を入れた。学校の定員は、青山本科320名、予備科生徒80名、女子本科180名、豊島本科1部40名、2部320名、予備科80名であった。卒業者はふえたが教員不足は解消せず、府内でも郡部の不足が大きかった。このため同39年から講究会を廃し再び講習科を置いた。
 附属小学校は、尋常(じんじょう)小学校については、第1学年から第6学年まで、各学年男児、女児各1学級ずつおいたが、そのほかに 第1学年ないし第3学年の児童を合わせて1学級、また、第4学年ないし第6学年の児童を合わせて1学級とし、また、第1学年ないし第6学年の児童を合わせて1学級とする実験的と思われる学級編制を行った[注釈12]。
 高等小学校では、第1学年、第2学年の男児を合わせて1学級、同じく女児を合わせて1学級といった学級編制であった。
 青山師範学校は、昭和11年(1936)、世田谷区下馬へ移転するまで36年間青山の地で教育を続けた。
 
関連資料:【文書】小学校教育 小学校教科教授法
関連資料:【文書】私立・諸学校 東京府青山師範学校