「専門学校令」

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 明治36年(1903)3月に「専門学校令」が公布された。高等の学術、技芸を教授する官立、公立、私立の学校が規定され、入学資格は中学卒業、修業年限3年以上を規定した。明治27年に「高等学校令」が公布され、それまでの高等中学校は高等学校と改められ、一種の専門学校とされたのであるが、実質は帝国大学へ入学するための予備の教育施設であったため、私立学校とは無関係に等しかった。
 「専門学校令」によって、これまでの専門教育機関か専門学校となる機会を得、私立学校は変ぼうしていった。専門学校としての認可を受け、大学と称するものもあったが、制度上の大学は東京と京都の帝国大学のみであった。
 明治38年の港区地域の専門学校として、東京慈恵会医院医学専門学校、慶応義塾、明治学院、聖教社神学校、曹洞宗大学があげられる。
 

[図11]専門学校教職員・学生数(明治45年東京府調査)

 
■東京慈恵会医院医学専門学校
 明治14年、成医会講習所として京橋区鎗屋町に設立された。
 明治23年、すでに皇后裁可に置かれていた東京慈恵医院の構内(芝区愛宕町)に校舎を移築、翌24年東京慈恵医院医学校と改称した。その後、診断所や、日本最初の耳鼻咽喉科を設けるなど内容が充実された。同校と深い関連を持ち続けた隣接の海軍軍医学校は 明治27年に廃止されたが、その後も軍医学生との関係は保たれた。
 明治36年の「専門学校令」により、私立東京慈恵医院医学専門学校として認可を受け、翌37年、産婆の養成を開始、同38年、文部省による最初の指定医学校となり、卒業生は無試験で医術開業免状が与えられた。明治41年、社団法人東京慈恵会医院医学専門学校と改称した。
 
■慶応義塾
 慶応義塾が大学設置を発表したのは、明治22年のことであった。これは新たに発足する専門学の課程を大学部と呼称することに決定したのだが、これに付随した正科、別科を大学部に対して普通部と呼ぶことになった。
 翌23年、大学部が新設されると、理財科、法律科、文学科を置き、私立大学の先駆となった。明治30年には更に政治科を加え、同31年、義塾の学制大改革のときから大学部に主力を注ぐようになった。
 明治36年に三田綱町に3870余坪を購入、体育方面に使用することとし、以後諸設備を整えた。明治36年11月、早慶野球第1回戦はこの運動場で行われた。
 慶応義塾では、開学当初から、積極的に外国教師を雇傭(こよう)して、欧米の学問を直接とり入れ、特色ある成果をあげていた。その雇傭願書は、東京都公文書館に多数のこされている。
 
■明治学院
 明治20年白金今里町に移転してきた明治学院は、明治32年の訓令12号の発令とともに、普通学部卒業生の進学先としての高等学部の拡張を考え、英語師範(しはん)科の設置を企画、翌33年には文学科、商業科を設け、英語教師と実業家を養成する方針がたてられ、同35年、修業年限を3年として実現された。そして高等学部に徴兵猶予の特典が認められ、翌36年に、「専門学校令」による専門学校として認められた。神学部も同時に専門学校として認可された。
 
関連資料:【文書】私立・諸学校 慶応義塾