■東京帝国大学附属東京天文台
明治のはじめの海軍観象台の天象部、内務省地理局観測課天象部、理科大学旧天象台等を合併して開設されたもので、帝国大学理科大学に附属し、専ら天象観測と編暦(へんれき)を掌(つかさど)っていた。
東京天文台は、飯倉町三丁目十七、八番地に在り、旧大徳寺隠栖の地並に尾州徳川邸一部分の址地なりとす。
―地は狸穴の上に位し、翼然として高く、周圍に樹木を栽えず、芝生原頭棲櫓を起し、観象に便ならしむ―(中略)―知らずや、正午号砲は此に子午線を窺(うかが)い、報知機を以て通達し、轟(ごう)然発火せしむるものたる所以を。(『新撰東京名所図会』)
明治42年3月、土地狭隘(きょうあい)と人家稠密(ちゅうみつ)により、北多摩郡三鷹村に土地を購入し、大正5年(1916)に移転した。
構内にある一等三角点は子午環儀の中心に位置し、東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148である。
■陸軍大学校
明治16年(1883)、和田倉門の陸軍参謀本部内に創設されたもので、同24年4月、赤坂区青山北町1丁目に移転してきた。高等用兵についての学術・軍事研究に必要な学識などを修得させるため、中堅の幹部(大尉、少佐)を学生として教育を行う陸軍の機関であった。修学年限は3年である。
■逓信官吏(ていしんかんり)練習所
明治6年8月、芝汐留に修技学校を創設、電信技術を習得させたものが、この前身である。
明治17年に芝公園内に移転、同24年、勅令をもって東京郵便電信学校の官制が公布され、逓信大臣の管轄に属することとなった。卒業者は文官試験及び、事務練習を要せずに郵便電信に関する判任官に採用されることとなった。
明治38年3月に廃止され、同42年迄通信官吏養成所となり、同年12月逓信官吏練習所と改称された。
以上みてきたように、明治後期は、小学校教育の充実とともに、私立学校を中心とする中等・高等教育の進展がめざましかった。多くの私立諸学校が開設され地域の教育の向上に貢献していた。最後に、明治29年の例を掲げておく[図12]。
[図12]明治後期私立諸学校
[図12]明治後期私立諸学校
[図12]明治後期私立諸学校
「明治29年東京府管内学事年報丙号表」〔公私立小学校を除く〕(東京府調査・東京都公文書館所蔵資料より作成)
関連資料:【学校教育関連施設】