二つの戦争と社会の風潮

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 明治27年6月、東学党の乱をきっかけに6月4日には早くも朝鮮出兵開始、イギリス、ロシアの調停は失敗した。同月8日には在籍帰休兵や後備下士兵卒に召集令が出され、青山練兵場は入営者の往来が激しくなった。「青山の原はすべて柵で囲われて内部は少しもわからなかった。しかし喧噪(けんそう)と混雑とは、軍隊の出発して行くさまを私に想像させるに十分だ。」と田山花袋は書いている。軍の編制ばかりでなく、さまざまな徴発も行われた。
 芝や赤坂では土地、家屋の徴発や車工、縫工(ほうこう)、靴工(かこう)、鞍工(あんこう)、革工、鍛冶工(かじこう)、木工など、諸種職工の徴集が行われた。
 同年7月25日の豊島沖(ほうとうおき)海戦があり、同年8月1日、日清戦争となり平壌・黄海(こうかい)の戦いがあった。
 赤坂区では報国会が結成され、出征軍人慰労や遺家族援助を行った。幹事には、松平時厚、赤坂区長の近藤政利が選ばれ、区内有力者126名を委員とした。明治28年中に、凱旋(がいせん)軍人歓迎慰労会が赤坂区役所で2回行われた。翌29年には赤坂区徴兵慰労義会も組織された。
 芝区でも凱旋軍人慰労会が芝公園弥生館で開かれ、従軍兵士へ金1円50銭、戦死者遺族へは金3円5銭を贈っている。
 明治28年7月「日清戦役中ニテ第二師団兵士ノ渡清ヲ本校職員児童青山練兵場ニ於テ送ル」と、南山小学校の沿革誌に書かれている。
 戦勝の報(しらせ)で国民は大騒ぎとなり、軍国主義的な風潮が強まった。
 日清戦争後の明治32年7月に至って、ようやく改正条約実施となった。外国人の居留地の廃止、いわゆる内地雑居は、さまざまな不安と危惧をもたらした。とりわけキリスト教宣教師による活動は、思想的な欧米への従属であると憂慮され、宗教教育に対する制限を与える法的準備がされるようになっていった。
 明治37年2月5日開戦の火ぶたを切った日露戦争では日本の勝算はおぼつかなかった。
 小学校では修学旅行を廃してその費用を軍人家族保護会に寄附したり慰問品を届けたりした。しかし、日清戦争の場合と異なり、反戦運動が社会主義者やキリスト者の間に起こった。「懲(ちょう)すべきはロシアにあらず、内に鉱毒を流しつつ外に無意義の国威を伸張して大和民族の将来を全うしようとする元老(げんろう)、閣臣(かくしん)政治にほかならぬ」などの声があった。『平民新聞』は反戦機関紙となった。反戦の主張は言論に終り、直接行動に出る者は無かった。
 兵営の町赤坂では、溜池に沿って召集兵のための仮小屋が建てられ、兵士が出入りし、青山練兵場にも仮小屋やテントが建て連ねられ、赤紫黄白の紐(ひも)を片襷(かただすき)にかけた召集兵の姿があり、兵営の前には菓子、果物を売る出店が市をなした。六本木では地元音楽隊が作られて出征兵士を見送った。
 戦争が終結した時、六本木、三河台、新竜土町、竜土町では、杉の葉で囲んだ大アーチを建てた[図1]。明治39年には、赤坂区報国会が結成され、同年4月、青山小学校で戦没者追弔会を仏式で行った。
 しかし、戦後の混乱と虚脱は大きかった。
 18億円以上の戦費と20万余の戦死傷者を出した大きな戦争であった。麻布区でも、日清戦争では5名であった戦死者が、日露戦争では47名となったという。明治38年9月5日、講和条約反対国民大会は、日比谷焼打ち事件となり琴平町、芝公園、新宿の交番が全焼、芝佐久間町、芝源助町の交番も破壊された。派出所では御成門、飯倉5丁目、松本町のものが全焼又は破壊された。
 

[図1]日露戦役凱旋門(麻布竜土町)

 
  区内軍事施設一覧
  ・麻布区
  第一師団歩兵第一旅団司令部  三河台町 明治18年設置
  第一師団歩兵第三連隊     竜土町  明治22年日比谷より移転
  ・赤坂区
  第一師団司令部     青山南町1丁目  明治24年赤坂離宮内より移転
  麻布連隊区司令部    青山南町1丁目  明治29年三河台町歩兵第一旅団司令部内より移転
  近衛歩兵第二旅団司令部 赤坂一ツ木町  赤坂台町より移転
  歩兵第二旅団司令部   青山南町1丁目  明治35年第一師団司令部内より移転
  近衛歩兵第三連隊    赤坂一ツ木町  明治26年旧芸州藩中屋敷跡の衛戍(えいじゅ)監獄跡に設置
  歩兵第一連隊      赤坂檜町    明治17年移転
  陸軍大学校       青山北町1丁目
 
関連資料:【文書】教職員 教員召集の届出
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 芝 麻布 赤坂歴代区長