産業の発達と社会の風潮

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 明治後期は、産業の近代化も進み、重化学工業も興隆し、芝浦は工業地域化した。更に明治39年(1906)から始まった隅田川口改良工事による埋立地の造成は、東京港とそれに附属する倉庫街と共に工場地帯として著しい発展を促した。芝区内工場数でみると、明治28年には工場数24であったのが、同41年では72工場にもなっている。芝浦製作所は電気機械、海軍兵器などの製造にあたっていたが、明治42年にはアメリカのゼネラル電気会社と提携協約を結び、三井財閥の中でも重要な工場となった。
 地場産業としての洋家具業も、戦争を通して発展した資本主義経済に関連した官庁、大企業の近代的会社街の形成と相まって最盛期を迎えるのである。
 産業や生活の近代化が進むなかで、資本家の形成とともにスラム街も形成されていった。
 一方、官公吏、サラリーマン、工場技師、医師、弁護士、学生、学校教師というような新しい形の中産階級も現われてきた。これらの人々は職業と社会的地位をかちとるために専門教育を受け、近代的な合理主義の考え方を身につけていった
 日清戦争後のインフレで労働者の生活が苦しくなると、ストライキは頻発した。それまで政治の舞台ではあまり問題とされなかった労働者が近代産業社会では無視できない構成要素となっていた。しかも、戦後も新しい工場が増加するについて、労働者が不足しだした。明治44年11月15日、芝新堀町30番地に、わが国最初の公設職業紹介所が設立された。ここでは、失業者や無業者に対する職業紹介をするとともに、簡易宿泊事業としての労働合宿もおこなった。