日露戦争がポーツマス条約によって終結したとき、人々はその講和条約の内容を知って失望した。日本が余力を残して勝ったと思いこんでいた人々は、日本の得るところの少ない条約と知り、国民の多数の犠牲によって進められた戦争に対する不満を表した。政府は、戒厳令をしき、軍隊を出動させてやっとこれをしずめることができた。
このような日露戦争後の国民道徳の乱れや新しい思想の流れに根本的に対処していくために、文部省を中心に通俗教育(社会教育)の内容や事業について検討し、通俗教育の進展を図ることとなった。
明治44年には通俗教育調査委員会が設置された。
第一条 通俗教育調査委員会ハ文部大臣ノ監督ニ属シ通俗教育ニ関スル事項ヲ調査審議ス
第二条 通俗教育調査委員会ハ文部大臣ノ命ニ依リ通俗教育ニ関スル講演又ハ材料ノ蒐集及製作ヲ為ス
(明治44年勅令「通俗教育調査委員会官制」)
同年7月、調査委員会は部の編成を行い、3部に分かれて事務を担当することにした。第1部では、読物の編集と懸賞募集、及び通俗図書館巡回文庫、展覧会事業に関する事項、第2部では、幻燈、活動写真のフィルム選定、調製、説明書の編集等に関する事項、第3部では、講演会及び、講演資料の編集等に関する事項とした。更に、同年10月10日に「通俗図書審査規程」「幻燈映画及活動写真フイルム審査規程」を定めた。
また、文芸委員会も文部大臣の下に設置され、優良な国民文学の奨励につとめ、通俗教育の一翼とした。
港区地域の小学校でもこのころ幻燈会の記事を残している、幻燈の内容は戦争ものが多かったという。
通俗教育の範囲は漸次拡大され、体育、各種の観覧施設、演芸その他の娯楽施設、風俗改良等にまで及ぶようになって、明治の末期より大正期へと発展した。
東京府教育会では、明治44年8月に教育会附属通俗教育部を設置した。その意図するところは「明治三十八年戦役の後に至り人心、荒怠日に益益甚しく動(やや)もすれば浮華淫靡(ふかいんび)の風を醸(かも)し或は激越危険の思想を伴生せんとする惧(おそ)れ」があるので、「世道人心を警醒(けいせい)して大いに社会風教の上に稗補(ひほ)する所あらんことを期」することであった。
麻布区教育会においては、すでに明治42年、第1回の通俗講談会を開いている[注釈4]。
通俗講談会は本会始めて開催したるものにして明治四十二年三月二十七日午後二時麻布小学校内に於て開催す先つ村松幹事会長に代りて開会の辞を述べ次に弁士金森通倫君は家庭教育及び国民教育てふ演題の下に滔々(とうとう)雄弁を振はれ而(し)かもいと懇切に二時間に亘りて児童教育上有益なる講話あり聴衆をして感動せしめたり次に文学講師細川風谷氏の趣味多き武士道講談あり当日の来会者僅(わず)かに百名に達せざりしは甚だ遺憾とするところなれども来会者は何れも満足したる様見受けられき金森君の演説大要は本編の附録即ち是なり
この演説は小冊子にまとめられているが、その内容は、まず、戊申(ぼしん)詔書と世界の平和、次に富国と強兵、武士気質と経済思想、武は消極的、富は積極的、勤倹貯蓄の奨励、独立心の養成と労働の神聖、貯金の秘訣(ひけつ)となっている。その後もこの通俗講談会は続けられ、同年1月1日には東京市教育会と連合して行った。講師として衆議院議員で東京市助役である田川大吉郎を招き「子供の地位」と題して家庭教育の重要性を説いたが、その際講談師も招いて「天野屋利兵衛」を演じさせた。このため来会者は300名を超えたという。その後、江原素六の「家庭の努力」、明治43年になって下田歌子による「現代婦人の心得」、佐治実然(じつねん)の「完(まった)き人となる工夫」、翌44年には大内青巒(せいらん)による「紀元節(きげんせつ)の勅語について」と続き、明治45年加藤咄堂(とつどう)による「国民の精神的基礎」、山路愛山の「織田信長論」というような具合であった(『麻布教育会会報』)。