「戊申(ぼしん)詔書」の発布

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 日本の産業革命ともいうべき産業や生活の近代化が進むなかで、都市や鉱山では労働問題が大きくなり、農村の生活も変わっていった。農村にも都市的な商品が流れこみ、労働力として都市へ流出する者も多くなった。国民全体が虚脱状況に陥った。
 明治39年(1906)6月、文相牧野伸顕は、学生の思想風俗の取締りに対する訓令を発した[注釈5]。
 
  近来青年子女ノ間ニ往々意気銷沈シ、風紀頽廃(タイハイ)セル傾向アルヲ見ルハ本大臣ノ憂慮ニ堪(タ)へザル所ナリ、現ニ修学中ノ者ニシテ或ハ小成ニ安ジ奢侈(シャシ)ニ流レ或ハ空想ニ煩悶(ハンモン)シテ処世ノ本務ヲ閑却スルモノアリ、甚シキハ放従浮靡ニシテ操行ヲ紊リ、恬(テン)トシテ恥ヂザル者ナキニアラス、斯(カク)ノ如キハ家庭ノ監督其ノ方ヲ誤リ、学校ノ規律漸ク弛緩(シカン)セルノ致ス所ニシテ、今ニ於テ厳ニ戒慎ヲ加フルニアラズンバ、禍害ノ及ブ所実ニ測リ知ルベカラズ
  社会一部ノ風潮漸ク軽薄ニ流レムトスルノ兆(キザシ)アルニ際シ、青年子女ニ対スル誘惑ハ日ニ益々多キヲ加へムトス、就中近時発刊ノ文書図書ヲ見ルニ、或ハ危激ノ言論ヲ掲ゲ、或ハ厭世ノ思想ヲ説キ、或ハ陋劣(ロウレツ)ノ情態ヲ描キ、教育上有害ニシテ断ジテ取ルベカラザルモノ尠シトセズ、故ニ学生生徒ノ閲読スル図書ハ其ノ内容ヲ精査シ、有益ト認ムルモノハ之ヲ勧奨スルト共ニ、苟(イヤシク)モ不良ノ結果ヲ生ズベキ虞(オソレ)アルモノハ、学校ノ内外ヲ問ハズ厳ニ之ヲ禁遏(アツ)スルノ方法ヲ取ラザルベカラズ
 
 東京府師範(しはん)学校では、名士の修養講演会を催したり、陸軍士官学校の見学会を計画したりして、生徒の思想や生活改善を図った。
 明治41年夏、組閣に当たった第二次桂内閣は、
 
  貧富の懸隔(けんかく)をして益々甚からしめ、従って社会の間に乖離(かいり)反動を促し、ややもすれば安寧(ねい)を危害せんとするに至るは、欧米の歴史に徴して寔(まこと)に已むを得ざる理教なり故に教育に因り国民の道義を養うは言を待たず
 
と、その施政方策のなかで述べ、社会内部の対立と反感を静めるために道義心を高揚することが必要であることを強調した。その年の10月、天皇の名において、「戊申詔書」が渙発(かんぱつ)されたのであった[図3]。
 

[図3]戊申詔書

 詔書は、まず「富国強兵」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の目標が十分に達成されてしまったわけではなく、更に決意を新たにして進まねばならないことを説き、更に社会の混乱を静めるため「宜(ヨロシ)ク上下心ヲ一ニシ忠実業ニ服シ」とさとした。戦後のインフレの中で「勤倹産ヲ治メ」と教えたのである。
 詔書は国民生活の在り方を天皇が示されたという形であるので絶対であり、この国民全体に対してくだされた詔書は、教育勅語につぐ重要なものとして扱われた。また、港区地域の教育会でも、会誌の巻頭に戊申詔書を掲げ、通俗講談会を催して広く一般への主旨の教唆を図ったのであった。