近年の研究では、この事実は、小学校への就学について、親の属する社会集団による「棲み分け」の状態が成立していたことと理解されている。公立小学校は名士や有産者などの「名望家」層を、私立小学校は「平民」層を、宗教者等による慈善学校(第2章第1節第2項に記載の「私立慈育小学校」もその一つ)や「特殊小学校」などを含めた貧民学校(当時そのように言われた)は「貧民」層を、主として背景にしていた。
「貧民」層の子どもは、授業料を支払って、尋常小学校4年(明治40年「小学校令」改正施行後は6年)の課程を修めることが困難であり、一面それ故に、通常の尋常小学校とは区別された、貧民学校が必要であった。
公立小学校の運営と費用負担は区が行うこととなっていたが、実際には、費用のほとんどは、名士や有産者などの寄付や、学校財産からの利益(利子や貸家・貸地の収益など)、そして高額の授業料によってまかなわれていた。この授業料を負担できる親は限られ、また、これらの親やその子どもが集まる学校の体質によっても、低層の子どもは排除された。そして、名士や有産者などの「名望家」層は、低層の子どもと一緒の教育を嫌い、この棲み分けの状態に対し肯定的で、存続を望んでいた。その一つの現れが、経済的に窮迫している子どもたちへの就学普及のために、通常の尋常小学校と区別された「特殊小学校」が、市直営として設けられたことであった。