義務教育行財政の展開と公立小学校の社会的意義の変化

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 明治30年11月、国は、小学校尋常科の授業料を制限する勅令(第407号)を発した。東京では、学校維持費用の確保や教員待遇に心配する公立小学校関係者、生徒減少を危惧する私立小学校関係者、さらに区長や国会議員などもこれに反対した。それを受け国側は、明治31年3月に、この勅令の施行を延期する一方で、「教育ノ整備」の観点から、「学齢児童ノ六分ノ一」を収容するに過ぎない公立尋常小学校の増設に東京市に注力させるよう勉めるべき旨、文部大臣から東京府宛に訓令を発した。
 明治32年には、増設すべき小学校90校の指定を東京府が行い、東京市訓令「市立学校建設費補給規定」により市から区への「補給金」制度が設けられて、以後公立小学校が増設されていった。一方で明治33年「小学校令」による制限で公立小学校の授業料が引き下げられた。これらにより私立小学校の児童が公立小学校に移動し、公立小学校は少なくとも下層職人、商人などにとっても初等教育の場となった。