上記の明治30年勅令第407号による授業料制限に端を発して、財政基盤の確保等のため小学校の設置維持の費用を市の負担とする、いわゆる「学政統一」の問題がおこった。上記の通り明治32年に市から区への学校建設費「補給金」制度が設けられ、その後数度にわたって増額された。さらに大正9年(1920)に着任した東京市長・後藤新平の下で、各区で基準が異なる公立小学校教員の給与が市直営小学校教員の給与と統一されるとともにその負担が市に一本化されることとなった。そして、これらを前提としながら大正15年に、「東京市立直営小学校」(「東京市特殊尋常小学校」を大正8年に改称)は、廃止され所在区に移管された(第3章第2節第2項)。
「特殊小学校」の廃止・移管の理由について、当時の東京市の文書は、「義務教育行政上ノ統一」を計るべきこととともに、「細民児童」の教育のために特殊の尋常小学校を設けることが、「近時ノ社会思想」に照らして「差別的取扱ヲナスモノ」である旨を挙げている。すなわち、「特殊小学校」の廃止・移管は、それまで約30年間の、義務教育行財政の展開と社会の変化の現れであった。