大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東地方は大地震に見舞われた。東京地方は地震に続いて火災が発生し、都市災害史上かつてない大惨事となった。その被害状況は市人口の65パーセント、約3分の2が災害を被り、死者5万8100人、物的損害は当時の金額にして55億円にのぼるといわれる。港区地域の焼失状況は、日本橋・本所・神田各区の90パーセント以上の焼失に比べて少ないものの、かなりの被害を受けていた。たとえば、芝区は地震と火災による大きな被害を受けた。地震によって三田四国町の日本電気の工場が倒壊し、多くの社員や技能労働者が圧死している。また火災による被害も大きく、芝全域の4分の1を焼失し、小学校も鞆絵(ともえ)・桜田両小学校をはじめ約半数の小学校が失われ、161学級、8437人(『港区史』)の罹災(りさい)児童が生じた。
麻布区では、麻布市兵衛町1丁目の一部分の焼失にとどまったが、それでも185戸が焼失した。また、地震による倒壊は比較的多く、全壊721戸、半壊954戸、破損6309世帯を数えた。
[図3]大正大震火災焼失区域図(『港区史』)
[図4]大正大震火災動態図(『港区史』)
赤坂区では、焼失家屋1539戸ほどであったが、その大部分は下町方面にかたより青山方面は火災の発生もなく、被害の程度も軽少であった。なお焼失戸数の割合を見ると、芝区42パーセント、麻布区1パーセント未満、赤坂区15パーセントであり、罹災者数の割合は芝区45パーセント、麻布区1パーセント弱、赤坂区15パーセントで、芝区は相当の打撃を受け、麻布・赤坂両区は局地的な罹災にとどまった。
関連資料:【くらしと教育編】第1章第1節 (1)戦前の港区