産業経済への影響

8 ~ 9 / 268ページ
 第1次世界大戦後の慢性的不況は、関東大震災後の復興景気も一因となり、一時的であったが活況に転じた。復興事業により、近代化都市へと生まれかわった東京は、市民生活にも大きな変化をもたらし、港区地域でも著しいものがみられた。たとえば新橋周辺の発展がその一つである。銀座に近い新橋・田村町周辺も銀座の影響を受け、震災前よりにぎわいを見せるようになった。
 新橋は、新橋駅を中心に商店が立ち並び繁華街を形成し、夜おそくまで、にぎわいを見せた。また田村町周辺も、ビルが立ち並びビジネス街を形成し、サラリーマンの往来がはげしくなっていった。
 更に田村町周辺には、東浜電力株式会社(大正14年)、富士川電力株式会社(大正14年)、東京湾電気株式会社(大正15年)、保土谷曹達株式会社(大正15年)などのビルが建ち、昭和初期のビジネス街形成の基盤となった。
 商店街は、新橋周辺以外には赤坂一ツ木や麻布十番がにぎわった。区内は特に飲食料品店など日常生活に直結した商店が多かった。
 また工場地域の発展も依然として続き、震災後は、特に芝浦埋立地に工業が急成長し、芝浦臨海工業地帯を形成した。三田四国町一帯には、日本電気株式会社を中心に、新しい芝浦地区とともに大工場が進出し、芝浦製作所、沖電気、池貝鉄工所、森永製菓などのほか、専売公社工場などの公共企業も見られた。
 古川流域の工場地帯も発展した。金属製品工場や、機械製造の中小工場が古くからあったが、震災後は、一ノ橋上流、麻布新広尾町、芝白金志田町、芝白金三光町(さんこうちょう)などの平たん地にも発展していった。