復興への道

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 大震災により芝地区は、大きな被害を受けたが、復興の足どりは早く、整然とした街並になり、近代都市に変貌(へんぼう)していった。
 復興への道は、先ず大震災の直後の大正12年12月に震災後の区画整理を主眼とする「特別都市計画法」が公布されたことからスタートした。芝地区は東京市による区画整理施行区域とされ、区画整理をはじめ、土地利用、市街地建築物利用などにわたる事業が行われた。
 震災前の区画は不規則で、裏通りは複雑に入りくんだ路地が多く、表通りだけが新しい装いにかわった。
 このような市街もやがて復興区画整理によって、新時代の都市生活と活動にふさわしい市街となった。
 また、この地域は坂道が多いが、坂をならし舗装することが始められた。更に、愛宕山を突きぬいてトンネルもつくられた。これにより、交通は一層便利になった。道路改良工事によって地域の舗装化は普及した。
 地下鉄については大正8年に建設が議会できまっていたが、実際の着工は、震災復興とあわせて大正14年9月、上野―浅草間で行われ、昭和に入って渋谷までの工事が行われた。このことがやがて、銀座・新橋を中心に浅草から渋谷までの街の発展につながる大きな契機となった。また、この時代は市電よりバスの発達が顕著であった。
 更に、芝区の焼失した鞆絵尋常(じんじょう)小学校をはじめ9校の学校復興を、東京市は7カ年継続事業として大正13年から復旧工事を進めた。これによって、芝区内の学校では昭和の初期に続々と鉄筋コンクリートの近代的な校舎が誕生し、新しい快適な施設によって教育が進められていった。
 
関連資料:【文書】教育行政 鞆絵尋常小学校改築