児童中心の教育

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 新教育への動きは明治の末ごろから認められるが活発化するのは大正に入ってからである。例えばオットーの合科教育、ケルシェンシュタイナーの作業教育、デューイの教育思想、プロジェクト・メソッド、ダルトン・プランなど欧米の新教育の思想と試みが、第1次世界大戦後に次々と紹介された。また「八大教育主張」[図6]を始めとして、新教育の考えがさかんに唱えられた。新教育運動は、おもに私立の学校や師範(しはん)学校の附属小学校で試みられた[図7]。いずれも子供の個性や自己活動を尊重する教育の実践であった。

[図6]八大教育主張


[図7]新教育実践活動校

 しかし、新教育の実践に対して、しだいに厳しい批判も強まり、大正末期から昭和の初めにかけて停滞現象を示すようになってきた。
 港区地域においては、当時芝小学校で「教科担任制」を導入しており、青南小学校では季節により授業時間に変化をもたせる「季別教育法」[注釈3]をとり入れている。これらは大正の新教育を学び、自由な発想による授業の効率化、児童のための授業をめざした一例である。また中之町小学校や筓(こうがい)小学校などの自治会活動は、児童中心主義教育のあらわれと見ることができる[注釈4]。