大正期後半より中等教育の諸学校が整備されるにしたがい、進学を希望する児童が増加してきたことは先に述べてきた[注釈18]。そのため地域内の各校では、入学試験準備の学習が展開されていた。青南小学校の大正13年卒業の後藤博基は次のように回想し述べている[注釈19]。
世の中もそろそろきびしくなり、上級学校への進学が新聞でも試験地獄などといわれ出して参りまして日土講習とか模擬試験が流行して参りまして、私達もそれに腕試しに行きました。(中略)成績が発表されるとなんと、青南の生徒の名前が一番からずうと受験した人数全部ならんでいるではありませんか。一度ならずどの試験でも青南が上位を独占してしまうのには、予備校の先生方もびっくりされどうしてこんな結果になるのか質問されましたので、新教育の実情を説明しました。A組はもとよりB組もそれぞれほとんどの生徒が第一志望の官公立をはじめ一流校に入学することができました。
青南小学校の指導の成果が中等学校入学試験にも好結果を生んだのであった。しかし、きびしい勉強の一方、徳育、体育も一生懸命やり、いわゆる完全な教育が行われていたと、後藤は青南の卒業生としての誇りを述べている。
同じ青南を大正14年(1925)に卒業した児童と担任との座談会記事に、中等学校へ飛び級入学者がいたことも語っている。このような飛び級入学の制度が導入されたことがかえって入学試験準備を盛んにし、入試地獄を生んだ一つの要因でもあった[注釈20]。
関連資料:【くらしと教育編】第7章第3節(2) 新教育に積極的な小学校