市電は一番線が品川から上野に通じていた。遠くから通学しているこどもは、走る市電を追いかけて車体にぶらさがり運んでもらったりした。
ビールの王冠を市電のレールの上においてつぶす遊びや、通る市電の番号が偶数か奇数かのあてっこをした。
男子は水雷艇長・けん玉・馬とび、女の子はまりつき・あやとり・お手玉・おはじき・鬼ごっこ・石けりなどは共通の遊びであった。正月すぎると竹馬を作った。三島町の自転車屋には子どもの貸自転車が二台あり、三十分―五銭ぐらいで借りては、よく乗った。高学年になると、家では百人一首で遊んだ。メンコやベイゴマは学校でやることは禁じられていた[注釈21]。 (神明小学校『神明』六〇周年記念誌)
[図20]夏季休業中の主な遊び(大正5年)〈筓小学校の児童調査による〉[注釈22]
なお、区内各校の記念誌によると、当時の区内には数多くの原っぱなど、子どもの遊び場が散在していた。バッタ・トンボ・蝶々とりや、カニとりなど、小動物を追いかけたり、草花を利用した遊びが行われていた。すなわち、自然とふれあう遊びが多く行われていた。
一方、都市化のあらわれとして、市電や自動車が登場してくると、危険ではあったが、市電のレールで、ビールびんの王冠をつぶす遊びなども流行してきた。更に貸自転車乗りなど、お金を使った遊びや、メンコやベイゴマなど、学校禁止の遊びが、路地裏などで盛んに行なわれていた。また、第1次世界大戦で、戦勝国となった当時、水雷艇長(ていちょう)・軍艦遊び・兵隊ごっこなどが男児の遊びに採り入れられていた。
遊び仲間は、よくけんかもしたが、みんな仲良しで、勉強ができなくとも、家が裕福でも貧しくてもコンプレックスを感じさせることなく、夕方おそくなるまで遊ぶ子供が多かった。
[図21]お手玉遊び(大島政男著『大正も遠く』)
[図22]べいごま遊び(大島政男著『大正も遠く』)