大正7、8、9年にスペインに始まったインフルエンザ(流行性感冒(かんぼう))は全世界に広まっていった。大正7年(1918)には我が国にも広がり大騒ぎとなったが、大正9年の夏ごろから下火となっていった。大正7年に東京市旧15区で肺炎および気管支炎で死亡したもの5296人、大正8年では7553人に達した。これらの大部分はスペイン風邪によると言ってよいが、流行性感冒で、これ程の死者を出したことは、その後はなかったと言われている。市長・府知事・警視総監による市民への警戒注意令が出されたが、市民としては為すすべもなかった。
芝区の赤羽橋にあった済生会芝病院も連日のように患者であふれるほどであったといわれる。連日のように葬式が続いたと伝えられている(『新修港区史』『東京百年史』)。
白金小学校の学校沿革誌には「大正七年、流行性感冒のため、四年一組四日間昇校停止」と記載されている。
スペイン風邪流行の実態は記録に乏しく、児童の学校への出席欠席の状況も明らかでない。
スペイン風邪と同様に、当時恐れられていた伝染病にコレラがある。特に大正元年は上海から、大正5年はマニラから、更に大正11年は上海から侵入した。
大正5年夏、マニラから入ったと言われるコレラは横浜から東京に広がり、429名の患者のうち267名の死者を出したと『東京百年史』に記されている。
大正5年のコレラ流行に関して、区内小学校の学校沿革誌に記されていることを列挙してみる。
白金小学校 北里製コレラワクチン注射を行う。
南山小学校 コレラ予防注射
コレラ発生、三日間通学停止
秋季運動会コレラ予防のため一般の入場謝絶
麻布小学校 コレラ流行のため運動会公開せず。
筓小学校 コレラ発生に関する注意を行う。
運動会コレラ流行のため公開せず。[注釈23]
予防注射の実施、運動会の公開中止などの措置がとられているが、これは、地域内各校とも同じようなことが行われたのではないかと推測される。
当時の運動会は、弁当を持ち込み、地域の楽しみの行事の一つであった。コレラの流行により運動会の公開中止は当然の措置ではあったが盛り上りのない運動会になったと言えよう。
関連資料:【くらしと教育編】第7章第3節(1) 「校報」の発刊とその内容