学校の9月1日

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 地域内の各小学校は、第2学期の始業式を終え、児童がそれぞれ帰宅したあとに地震が発生した[図1]。被害は地域や学校により異なるが、各校の学校日誌や記念誌などから、大正12年(1923)9月1日の学校の状況をながめてみよう。
 
    芝区白金尋常小学校の学校日誌
     九月一日 土 晴
  一 始業式 第一回 午前八時 第三学年以下
        第二回 午前九時 第四学年以上
  一 お土産話会 午前一〇時
   正午大強震あり、屋根瓦大損害、其ノ他室内壁ノ損害多シ、重要書類、御真影ヲ持チ出ス
 
  麻布区飯倉尋常小学校の学校日誌
    九月一日  土  晴
  午前一二時 大地震アリ、職員タマタマ裁縫室ニテ同僚ノ送別会ヲ開催中、幸ニ無事逃ケ出シタリ、校舎ノ損害甚シイ
 
 大震災当日の大混乱の中での記録であるため詳細な内容は望むべきもない。しかし、各校とも始業式を終え、児童を無事帰宅させた直後の休息に入った時刻だけに、教師の動きが目に見えるようである。
 

[図1]新橋駅(国書刊行会『写真記録 関東大震災』森田峰子編より)

 また、芝区三光尋常(さんこうじんじょう)小学校職員であった肥沼季平は、同校の『五〇周年記念誌』に、つぎのような文章をのせている。
 
    関東大震火災の思い出
  午前一一時五八分、突如として起った大地震、ひっきりなしに起る余震、人々の恐怖はその極に達し大混乱が起った。空には大入道雲が出てきた。地震の上に雷雨かと思っているうちに市内に、二〇数か所から火災が起り、その煙だということがわかった。夕方になると空は真紅になり家に帰った。(中略)講堂のピアノの傍に理科教室の薬品戸棚の危険物を避難させてあった。その中の黄燐が自然発火して燃え出した。それをピアノの覆が風にあおられてぱたぱたとはたき、今にも燃え移りそうだ。これを見た古川先生がとんでいって、バケツにはいっていた黄燐をバケツごと運動場に投げ出した。先生は手に火傷をしたが、これがため、学校も町も火災をまぬかれることができた。(後略)
 
 青山尋常小学校には、次のような記録が残されている。
 
    九月一日の記録
  大正一二年九月一日 土曜日、本日ハ概シテ気温高ク、朝来殆ント盛夏ニ等シキ暑サヲ感スルノミニシテ何等異変ヲ予想セラルベキ兆候ヲ認メズ 午前八時始業式ヲ行ヒ終ツテ各学級ハ夫々児童ニ注意ヲ与へ教室ヲ整頓シ授業開始ノ準備ヲ終ヘテ児童ヲ下校セシメ、更ニ職員打合会ヲ開キ、一一時閉会、夫ヨリ各自執務中、一一時四八分(正確ニ言ヘバ一一時四八分四四秒)突如トシテ安政以来ノ激震ト称セラルゝ大地震襲来シ屋根瓦崩落、煉瓦塀倒潰校庭並ニ屋内体操場内ニ大亀裂生シ、水道断水セシ故火災ヲ慮(オモンバカ)リ直ニ小使室ノ炭火ヲ消シ又化学薬品ヨリ発火スルコトヲ恐レ、二階ヨリ取リ出シ之ヲ土中ニ埋没セリ。
  御真影ハ校庭中央ニ奉遷シ数名ノ訓導守護シ奉リ、重要書類モ亦校庭ニ搬出シ火災ニ避難シ得ル準備ヲナセリ。(以下略)(『青山尋常小学校沿革誌』)
 
 つぎに児童たちの体験した大震災を当時の児童の作文からひろってみよう。
 芝区芝尋常小学校の児童は次のように述べている。
 
  芝離宮へ逃げたが中の建物が焼けて火に追われ、奥へ奥へと逃げた。津波で足元まで水があがってきた。九月一日夜一〇時ごろに虎の門方面より火の手が迫り避難した。飲み水に困り芝公園のプールの水を飲んだ。(中略)地震で家屋が潰れたのは殆んどなくて火でやられたのが多い。神明小の校舎が焼けるのを見て泣いた。(『芝小学校記念誌』)
 
 芝区北部地域が最も被害が集中していた。その様子は児童の体験記によく示されている。
 地域内の各小学校は被害状況に違いがあったが、翌日から授業はすべて中止された。
 
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第5章第2節 (1)被災の状況