学校の被害状況[図2]

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 震災前において港区地域の公立小学校数は、東京市直営の芝浦・絶江(ぜっこう)の2校、芝区の16校、麻布区の8校及び赤坂区の5校、合わせて31校であった。各校の震災による被害には大きな違いが見られるが、特に芝北部方面の9校が焼失した。焼失学級数は161学級、その罹災(りさい)児童数は8430名に達した[注釈1]。
 

[図2]罹災小学校報告(『東京市教育復興誌』)

 学校の沿革誌に記載されている被害状況によると、西桜尋常小学校は「一日夜一二時頃、校舎全焼、宿直職員は御真影勅語謄本を奉じ芝公園に避難し、更に二日南海小学校に奉安した。」と記され、12学級、659名が罹災した。台町尋常小学校及び中之町尋常小学校は「校舎損害甚大」と記され、筓(こうがい)尋常小学校は「物置二棟倒壊した外さしたる損害なし」、飯倉(いいぐら)尋常小学校は「屋根壁、屋外運動場に相当の被害あり」と記述されている。青南尋常小学校の『青南学報』には「新校舎は殆んど破損なく旧校舎は瓦が落ち又は化粧壁が落ちた。博物標本器械器具等の破損はやや多かったが尚焼失校に較べて雲泥の差である」と述べ、芝北部方面と青山方面との違いを指摘している。
 地震による被害は各校とも受けたが、それよりも火災による焼失がむしろ被害を甚大にしたと言えよう。被害は、物的なものだけではない。麻布尋常小学校の沿革誌に「……児童全部下校後の事なれば、校内一名の死傷者だになし。されども児童中、第四学年須藤梅太郎君の圧死せしは痛恨に堪えず……。」とあり、同様に飯倉尋常小学校では「一一月一日、罹災死亡児童五名の為に追悼式を挙げた」と記されている。区内の死者613名の中には、かなりの児童が含まれていたものと思う。
 焼失校である桜川尋常小学校の『百周年記念誌』に、学校焼失に至る状況が詳細に記されている。その一部を記載してみると次のとおりである。
 
  数回の激震ありしが、校舎は棟瓦崩落内部の戸棚転倒壁剥落せし位にて差したる損害も無かりし、直ちに理科教室を調べ、火の元に注意し、消火栓にホースを付けて万端の用意をなし、市中の出火如何に注意せしが、警視庁附近の出火は最も本校に近きものなりき、午後一時ごろ附近に出火等の憂なきを確め、一同一先ず帰宅することとし、宿直員に御真影の保護につき注意を与え、帰宅したり。(中略)其の内市内中各所に火起り火勢猛烈にして、全市悉(ことごと)く修羅場と変し市民恐怖の極に達したり。予(守谷孫七)午後十時ごろ出校せしに、宿直員は御真影を増上寺境内に奉遷して護衛し居たり。時に火勢は芝口辺を焼きつつあり、一方赤坂方面より延焼せる火勢は巴町附近に在りとのことなり。直ちに使丁を督して重要書類を用心籠に満載して之を使丁二名に担わせ、他一名には風呂敷に包みたる書類を負わしめ、予は勅語謄本を奉じて増上寺に避難することとせり。時に風勢猛烈に当方に吹付け火焔飛来りて遂に本校も全焼を免るること能わざりき。時に午後一二時頃なり。(後略)[注釈2]
 
 学校を焼失から守ろうとする教職員の懸命な姿が示されている。他の焼失校も痛恨の念で焼けおちる学校の姿を見送ったことであろう。
 幼稚園も8園が焼失し、園児2551名中、1419名が罹災した。芝、麻布共立幼稚園は、1日午後園舎全焼、休園となった。
 芝浦尋常小学校に併置されていた芝浦尋常夜学校も焼失したが、他の6校の尋常夜学校は幸いにも難をまぬがれた。
 実業補習学校6校のうち、愛宕商業補習学校が焼失した。
 地域内の私立中学校5校のうち、聖心女子学院と攻玉社(こうぎょくしゃ)中学校は全焼、正則中学校は大部分を焼失した。赤坂中学校と頌栄(しょうえい)高等女学校は一部破損の被害にとどまることができた[注釈3]。
 地域内の諸学校は、被害の大小の違いこそあったが、いずれも、翌日から休業になった。学校教育の発足以来、はじめての出来事であった。
 
関連資料:【文書】教職員 関東大震災に関する桜川小学校の記録
関連資料:【学校教育関連施設】