[図3]芝公園バラックづくり(国書刊行会『写真記録 関東大震災』森田峰子編より)
市や区にとって、罹災者を収容救護することは、食料供給と共に最緊急の課題であった。焼け出された市民は、縁故や郊外に借家を求めて避難する者もいたが、多くの罹災者は官公庁、学校、寺社、富豪邸宅などに収容されるか、公園などに設けられたテントに収容された。その後、日がたつにつれて収容者は故郷に帰ったり、焼跡に仮小屋やバラックを建てて移っていった。しかし、行き先のない者も多く、国・市・区は公費によってバラックを建設し収容した。
地域内の各学校も罹災者の収容に市・区に協力した[図4]。
[図4]麻中・飯倉小学校収容人数(『麻布区史』)
青山尋常(じんじょう)小学校の学校沿革誌には次のように記されている。
此際人々ノ希フトコロハ只生命ノ安全ノミニシテ山ノ手方面へ郡部ヘト潮ノ如ク避難スル者相踵(ツヅ)キ夕刻ニハ数十名来校セルヲ以テ全部之ヲ屋内体操場ニ収容シ数名ノ訓導救護ト警戒トニ当レリ。
翌二日以後ハ罹災者ノ収容益々増加セルヲ以テ二階建階下教室ヲ開放シ全職員出勤シテ其収容救護ニ努メ又宿直訓導小使ヲ増員シテ昼間夜間ノ勤務ニ当ル一日以来ノ猛火ハ尚モ暴威ヲ逞(タクマシ)ウシ延焼又延焼帝都ノ過半ヲ焦土ト化シ三日ニ至リ初メテ熄(ヤ)ム其凄惨言語ニ絶ス。
罹災者収容には、学校は全教職員が一体となって事にあたっている。
このことは、『東京市教育復興誌』に芝区芝尋常小学校の罹災者収容と救護組織を設けていたことの記録のあることでも明らかである。
二日朝火はおさまり、学校は全く危険を脱した為、罹災者を収容した。二日より十月九日までの収容延人員は二万二千九百余人となった。なお神明、桜川、南桜、愛尋、愛高の五校の御真影も本校に避難した。
救護事務は小島文吾校長収容所長となり、職員使丁全部、南桜、愛高、愛尋の職員使丁、班長、収容者中より五名を選し、総務、庶務、警備、衛生、受付、配給の各部を設け、専ら事務の敏活を期した。
学校職員の具体的な活動は、罹災者の収容の受入れと救護の活動であるが、その例として、当時赤坂区赤坂尋常小学校の職員であった小穴武男は赤坂小学校の記念誌に当時の思い出を記している。
夕方近くになると、学校が避難所となって、罹災者がやってきた。一階と雨天体操場がいっぱいになってしまったころになると、男子職員は自分の家に帰れない。相談の結果特別の事情のない者は残って罹災者の世話や夜警をすることになった。
学校の前の通りは、下町の罹災者が山手の方へぞろ〳〵やってくる。校門前でこの方々の救護の仕事がある。玄米のおにぎりをおいしそうに食べていくこどもが、いじらしく印象に残っている。どの子も皆着のみ着のまゝだが、水だけは、やかんかビンに入れて持っている。
校内の罹災者のための配給の仕事もわれわれの仕事であった。
米が校内につくと六〇キロ以上もある米俵を二階の運動場までかつぎ上げねばならない。この仕事が私の受持ちで、米がつくと呼びだしがかゝる。二〇代の若さに自負もあってこれに当った。かんづめの配給も相当あって、私どもの食事の副食物もかんづめばかりである。一週間もつゞくと、かんづめの一種の匂いが鼻について食べられない。校門の前で塩鮭を売ったこともある。目方をかける。目方によって代金を計算する。簡単な仕事であるが、儲けてもいけない。そうかといって損してもいけないというわけで、慣れない仕事に気をつかった。
以上の諸記録に依れば、学校は当局の方針に従うのみでなく、罹災者に対し誠心誠意をつくして活動していたことがうかがえるのである。
9月12日現在の罹災者数及び各学校の収容人数は[図5]のとおりである。25校が収容施設となり、収容人数は1日で約5500人に達した。麻布区では10月7日、授業再開のため学校の収容施設は閉鎖した。
[図5]区内各学校の罹災者収容人数・大正12年9月12日現在(『東京市教育復興誌』)
大震災当時の本校の活動 赤坂区青南小学校
避難者の救済 九月二日に避難所として開設されて以来一ヶ月有余の間、青年団其の他の諸団体の援助の下に全職員挙ってこれが収容救済に全力を傾けたのであった。
二日三日四日と収容せられた者は二〇〇名に上り最も安全な避難所として罹災者の満足は非常なものであった。是等の不幸の方々に対して本校は当局の意のある所を汲んで食料品衣服の配給諸調査警備衛生等怠りなく行った事は他の救済所に勝るとも劣る所はなかった。
九月一二日から同一八日まで赤坂区役所の委託で白米塩鮭の販売を不馴れながら開始したのであるが、幸に大過なく売尽して其の責を果したことは大方諸賢の寛大に因る事と当事者一同深く感謝する次第である。 (『青南学報』第3号)
[図6]震災後の物資配給(青南小学校『創立70周年記念誌』)
全職員が収容者に対して細かな世話を積極的に引受け、親身の活動をした[図6]。こうした活動をすすめるための組織も各校で編成していたことが次の記録から知ることができる。
罹災者救護について
麻布区飯倉尋常小学校
九月二日より一〇月三〇日まで避難民延人員一、二九〇人を収容した為、職員の分担を警備・救護・配室・配給・炊事・衛生・通報・雑務に分け管理した。また、児童調査救護については各校と同一にして活動した。 (『東京市教育復興誌』)
[図7]青山師範学校内救護所(『赤坂区史』)
また、学校施設は罹災者の収容、救護に利用されるだけではなく、診療所となったり、治安を担当する軍隊の駐屯所にも活用され、罹災者救護活動の中心となった[図7]。このことについては次の記録がある。
三日 此日より各小学校避難所に看護婦一名宛を配置した。
五日 氷川小学校内に診療支部を開始、避難中の中川医師之を担当する事となった。
六日 中之町小学校内に第二診療所を開設し、労力提供の申出ありたる片山、大倉、山田等の医師に之が担任を依嘱した。
七日 植松医師より赤坂小学校救護班に出張診療中の旨通知があった。
一一月 赤坂小学校の教室に設備を加えて、重症患者収容所となし、直ちに各避難所より十数名の重症者を収容した。(『赤坂区史』)
軍隊の駐屯 戒厳令下にあって地方警備の為、九月一四日から一〇月一七日まで歩兵第一五、同三一、同三の各聯隊が交々本校に駐屯したのである。九月一六日山形の三二聯隊の駐屯中戒厳令地下を御巡幸中の秩父宮殿下が其の第六中隊本部に当る本校においで遊ばされたことは本校の最も光栄とする所である。
(『青南学報』第3号)
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第5章第2節 (1)被災の状況
関連資料:【くらしと教育編】第6章第2節(1) 学校を避難所に