授業再開までの対策

125 ~ 128 / 268ページ
 校舎を焼失した学校はもとより、罹災(りさい)を免れた学校においても、当分の間は学校本来の教育活動がストップした。しかし全く児童を放置したわけではなく、授業再開の準備や避難児童の調査や訪問、登校日を設けて避難児童の慰安、激励、復習などを行っている。これらの状況については次の記録に明らかである。
 
    授業再開までの対策
  九月一日  夕刻、数十名の罹災者を収容し救護に当る。
  九月二日  罹災者の収容益々増加。
  九月一二日 訓導手分けして学区内の避難者の状況及び教育上必要な調査を行った。
  九月一八日 児童相談所を校内に設け避難児童の入学受付や教育上に関する相談に応じた。
        また、学区内戸別訪問を行い児童収容方法等を講じた。
  九月二三日 罹災児童を集めて慰安的な意味を以て学科の復習、運動遊戯等をなす。
  十月一五日 授業開始す(『赤坂区青山尋常小学校学校日誌』)
 
 授業再開に至るまで、どのような経過をたどってきたか、『東京市教育復興誌』の赤坂区について記述しているところを掲げてみよう。
 
   赤坂区 区内小学校はいずれも焼失を免れ、罹災者の収容所となり、教職員は吏員に協力して救護用務に当たり、食料衣類等の配給に任じたが、各校長は区役所内に常設校長会を設け、各校協力して救護及学校の復興を計り、市学務課と連絡して随時会談し、
  1 各校に於て其教員及児童の被害状況を精査すること
  2 区内に避難せる他区罹災児童にして当区小学校に入学希望するものは、全部之を収容し、二部又は三部教授を為すこともあるも之を遂行すること。
  3 当区児童と他区児童とに差別をつけず、平等に取扱うべきこと。
  4 各校に就学相談所を設け罹災児童就学に関する相談に応ずること。
  5 各校共其通学区域内各戸並にバラックに就き罹災児童就学者を調査すること。
  6 大詔渙(かん)発の御聖旨に副ひ奉るべく協力一致して帝都の復興を図るべきこと。
  7 各校協力して古本教科書を蒐めて罹災児童に使用せしむること。
  8 罹災児童の授業料免除の方法を講ずること。
  等の各施設を協定実施し、一〇月上旬より準備に着手し、収容罹災者を集団バラックに移し、一〇月四日より一三日まで午前中第四号バラック児童三〇〇名を集めて小国民学校(仮設の小学校)を開催し、区内各小学校訓導交代出張して毎日七名づつ、学科の復習、講話、体操、童謡、唱歌等を設け、参加児童に学用品を給与し、懇切に指導して好成績を収めた。
 
 大震災による混乱が鎮静化されるに従い、市・区の教育復興計画にのっとり、各区の校長会が区の行政と連携を図りながら、各校の授業再開を進めていったことが示されている。
 
   避難児童対策
  1 避難児童の救済 避難児童の入学申込受付以後は、彼等の罹災当時の恐怖心の一掃と疲労の恢復をはかるため、唱歌会・運動会・活動写真・お伽噺(とぎばなし)などの会を開き慰安につとめた。なお罹災児童就学相談所を開設し便宜をはかった。
  2 児童保護者の見舞慰問 罹災児童入学申込書配付の際殆んど軒並に本校職員を以て学区域内の御見舞をなさしめた。
  3 児童召集 一方には避難児童慰安会を催しながら十月五日からは従来在学せる本校児童を毎日一学年宛学校に召集して精神的慰安を図り授業開始の準備をした。
  4 小国民学校 青山外苑バラック内に避難した児童のために赤坂区にあっては小国民学校(仮設の小学校)を設けて其の教育を行ったのである。本校からは浜中、高橋(忠)両訓導が選ばれてこの至難の職に携はったのであるが、両訓導の苦心は筆舌では到底つくすことができなかったのである。
  (『青南学報』第3号)[注釈5]
 
 以上の記録からわかることは先ず、学校を避難所に開放したこと、児童・保護者の状況把握に努めたこと、大災害によって受けた精神的ないたでをいやすことに最大の努力を傾けたことなどがあげられる。しかもこのような活動のすべてが、授業再開への諸準備の大きな内容であったことを示している。
 児童数は、焼失校を除き、罹災者を収容したため各校とも一時的に増加したことが[図9]によって明らかである。
 

[図9]小学校児童数・大正12年11月15日調べ(『東京市教育復興誌』)

関連資料:【文書】小学校教育 小学校通学区域
関連資料:【学校教育関連施設】