大正15年(1926)4月22日「幼稚園令」が制定された。「幼稚園令」の制定には幼稚園関係者によって全国的な規模で制定運動が推し進められた。文部省は大正14年文政審議会に「幼稚園令制定の件」を諮問した。大正15年1月その答申を得て、その公布が実現した。「幼稚園令」は、我が国における幼稚園に関する初の単独の法令で画期的なことであった。同年6月、東京において「幼稚園令発布記念全国幼稚園大会」が開催され、幼稚園関係者がその制定を祝った。翌7月には、これをもとに東京と奈良において幼稚園保母講習会を開催した。この「幼稚園令」は昭和期の幼稚園教育発展の大きな契機となった。
「幼稚園令」は、第一に幼稚園の目的として「幼稚園ハ幼児ヲ保育シテ其ノ心身ヲ健全ニ発達セシメ善良ナル性情ヲ涵養シ家庭教育ヲ補フヲ以テ目的トス」と明記した。従来の規定では「善良ナル習慣」とされていたものが「善良ナル性情」を涵養(かんよう)することに改められ、より広い人間性の基礎を培うことが強調された。
第二に、幼稚園に入園できる年齢に幅を持たせ、「幼稚園ニ入園スルコトヲ得ル者ハ三歳ヨリ尋常小学校就学ノ始期ニ達スル迄ノ幼児トス 但シ特別ノ事情アル場合ニ於テハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ三歳未満ノ幼児ヲ入園セシムルコトヲ得」と改めた。
第三に、「幼稚園ニハ園長及相当員数ノ保姆ヲ置クヘシ」とし、園長保母の資格を定め、公立幼稚園の園長と保母を判任官とした。
「幼稚園令」と同後に制定された「幼稚園令施行規則」においては、第一に保育内容が改められ、従来の遊戯、唱歌、談話、手技のほかに「観察」を加え、更に手技等と「等」という字を挿入し、5項目のほかに適宜工夫の余地を示した。第二に「幼稚園ニ於テハ年齢別ニ依リ組ノ編成ヲ為スヲ常例トス」と新たに定められ、小学校と同様に暦年齢による学級編成となった。第三に「保母一人ノ保育スル幼児数ハ約四十人以下トス」とされ、しかも「幼稚園ニ於テハ保育項目、保育時数、組数等ニ応シ必要ナル員数ノ保姆ヲ置クコトヲ要ス」ことが定められた。より多くの保母の確保の道が開かれた。