このような状況を受けて東京府では、大正7年(1918)2月実業補習教育奨励に関する訓令を発し、同年3月東京府補習教育協議会を設けた。この協議会は補習学校の実施要項並びに奨励方法を調査研究する機関である。また同年8月には補習学校の施設の標準を定めた[注釈2]。こうした府の奨励、振興策が講じられ[注釈3]、府下の実業補習学校は量的にも内容にも拡充してきた[注釈4]。
[図2]によれば、農業補習学校は府下実業補習学校の中でも圧倒的に多く年々数がふえ大正12年を最高にして翌年から減少している。これに比べ工業・商業補習学校などは意外にふえていない。こうした理由はいろいろ考えられるが、東京府全体としてみればおそらく当時の商工業の発達段階にあっては、徒弟制的な実業教育の方法で足りていたのかも知れないし、あるいは、都市実業補習学校に代わって各種学校がその役割を果たしていたのかも知れない。
[図2]大正期 東京府の実業補習学校数一覧[注釈5](『東京府史』行政篇)