縁故疎開から学童集団疎開へ

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 学童集団疎開は、戦時中の子どもたちの重大事件であった。「戦況深刻化に伴う教育的措置」(第4章第9節)には、港区地域の子どもたちが経験した学童集団疎開についての数多くのエピソードが詳しく紹介されている。
 戦局が悪化し本土空襲が必至となった昭和18年(1943)10月、東條英機内閣の閣議決定により学童疎開は実行に移された。ただし、当初は学校・学年を単位とした集団疎開ではなく、できるだけ所帯単位で、または田舎の親類縁者を頼って自発的に行われる「縁故疎開」が実施された。港区地域でも縁故疎開する児童がいたが、「私費負担に耐えられない」「頼れる縁者がいない」「報道規制による戦局への楽観視」などの理由から、政府の想定通りに疎開は進まなかった。間もなく、長距離飛行が可能なB29による本土空襲が現実のものとなった。
 昭和19年6月16日、八幡製鉄所を主目標として現在の北九州市域が空襲された。いよいよ計画的な疎開を実施する必要に迫られた東條内閣は6月30日、ついに「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、学童集団疎開が実行に移された。国民学校初等科3年生から6年生の児童が対象となった。港区地域の児童は7月末から順次出発、芝区の児童は主に栃木県北部の塩原方面の温泉地などへ、麻布区の児童は主に栃木県南部の足利市、佐野市などの農村へ、そして赤坂区の児童は北多摩郡および南多摩郡へと疎開した。
 この間も戦局はさらに悪化していった。6月中にはマリアナ沖海戦で大敗北を喫し、7月になるとサイパン島が玉砕した。戦局の悪化を知らされることもなく、子どもたちは疎開に向かっていった。
関連資料:【くらしと教育編】第10章 危機から逃れていく子ども、逃れてくる子ども