疎開先での暮らし[図1][図2][図3]

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 当時の史料やエピソードから、疎開のあらましを紹介したい(第4章第9節)。
 学童集団疎開の出発日、涙ながらに見送る家族がいる一方、意外なほど落ち着いていたり、さらには、これからの生活に好奇心を示したりする子どもの姿もあった。
 疎開先では地元の歓迎を受け、興奮が冷めやらぬまま寝つけず、夜更けまで話をする子どももいれば(南山小学校)、初日から寂しく一晩を過ごした子どももいた(神応(しんのう)小学校)。
 疎開して間もなくすると、ホームシックに陥る子どもの記録が目立ち始めた。毎晩のように代わる代わる帰京を訴える子どもが出てきた(神明小学校、芝浦小学校)。中には一人、宿舎を脱走して東京に戻ろうとする者もいた(神応小学校、氷川小学校)。
 疎開の始まった夏が過ぎ、寒い季節を迎えても十分に暖を取れない疎開先があった(赤坂小学校)。宿舎となった寺の便所は屋外にあり、暗闇の中を一人で用に立つのは勇気のいることだった。一人が立つと連れ立って用を足しに行った(東町小学校)。
 食事は、配給や地域の事情で単調になりがちだった(芝浦小学校)。栃木県の疎開先では栗やドングリを拾い集める活動も行われた。体重は減少傾向を示し、見た目にも小さくなったように感じられてきたという(白金小学校、南桜小学校)。敗戦後、滞る配給のなかで食糧不足で亡くなる児童も出た(桜田小学校)。
 衛生面は、現在では考えられない劣悪さだった。子どもたちは体中がノミ・シラミまみれになり、野外活動では栗のイガで肌を腫らした(筓(こうがい)小学校)。温泉地では性病に罹患(りかん)する者も出てきた(『東京都教育史』)。疎開先の農村のなかには無医村もあり、適切な処置が受けられない時もあった(芝浦小学校・筓小学校)。
 疎開先での暮らしを何より慰めたのは、制限された中で実現した家族との面会である(南山小学校、芝浦小学校、飯倉(いいぐら)小学校)。また、地元の厚遇に助けられた学校もあり(神明小学校)、慰問団の訪問や空き時間での出し物大会も子どもたちの慰めになった(神明小学校、鞆絵(ともえ)小学校)。
 しかし、縁故疎開で疎開先の学校に一人で飛び込んだ子どもの中には「東京人」「疎開っ子」としてよそ者扱いされ、いじめにあった者もいた(『東京都教育史』)。

[図1] 集団疎開での朝会
南海小学校。川治温泉にて。


[図2] 疎開地での生活日程表と月例行事
桜田小学校。


[図3] 農耕作業をする児童
昭和19年、沼津戦時疎開学園。