空襲下の子どもたち

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 戦局が破滅的になると、疎開先すら空襲にさらされる危険が出てきた。赤坂区の児童が疎開した多摩地域や麻布区の児童が疎開した栃木県足利市、佐野市などの地域には軍需工場も多く、これらが空襲の対象となった。一部の学校は、より安全な地を求めて再疎開を実施した(『東京都教育史』)。
 昭和20年3月、卒業を迎えた6年生たちは帰京となった。上級生が去ったあとの宿舎は寂しさに包まれた(白金小学校)。しかし、東京に戻った6年生たちを待っていたのはさらなる空襲であった。東京都が帰京期限とした3月10日の前夜には、凄惨な東京大空襲があった。現在の港区を構成する芝・麻布・赤坂の3区は同年3月から5月にかけての空襲で壊滅的な被害を受け、小学校も19校が被災した。空襲の激化を受け、東京都は初等科1、2年生や高等科児童にも縁故疎開を奨励した。この段階に至って縁故疎開を行う家庭も一挙に増え、集団疎開から離脱する子どもも増えた。一方で、その様子をうらやむ子どもの姿もあった(桜川小学校)。