我が国は、日中戦争の戦線拡大とともに、次第に戦時体制が強化されていった。そして、昭和16年12月8日太平洋戦争に突入し、広島・長崎への原子爆弾の投下によって昭和20年8月15日終結した[図1]。
昭和6年の満州事変から、昭和20年の終戦までの15年間、区民の生活は戦争完遂のために、次第に統制されるようになってきた。特に学童集団疎開と空襲は、区民の生活に大きな影響と被害を与えていた。永井荷風は日記『断腸亭日乗』に、大空襲の様子を次のように記している。
三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時に至りわが偏奇館焼亡す。火は初長垂坂の半程より起り、西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す。予は枕頭の窓火光を受けてあかるくなり、隣人の叫ぶ声唯ならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提けて庭に出でたり。(以下略)
[図1] 原子爆弾の報道(朝日新聞 昭和20年8月8日)
関連資料:【学校教育関連施設】 港区指定文化財一覧 (昭和54年度~平成30年度指定)