戦時体制の進む中での学制改革

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 昭和初期の経済的な不況、思想統制から、満州事変の勃発(ぼっぱつ)、上海事変、日中戦争と移行する中で、学制改革が進められてきた。
 昭和6年(1931)7月、学生の思想対策として「学生思想問題調査委員会」が設けられた[注釈2]。更に、昭和7年8月、国民精神文化研究所が設けられている。その創設趣旨をみると、「わが国体、国民精神の原理を闡明(せんめい)し、国民文化を発揚し、外来思想を批判しマルクシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする有力なる研究機関を設くるため」とある。
 昭和10年4月10日、国民精神を作興し、国体の本義を明徴にして教育にあたるよう教育関与者に「文部省訓令」が出されている(「建国ノ大義ニ基キ日本精神作興等ニ関シ教育関与者ノ任務達成方」)。
 
  今の内外の情勢からみて、緊急に必要なことは建国の大義に基づき日本精神を作興し国民的教養の完成を期して、国体を不抜に培うことである。わが尊厳なる国体の本義を明徴にして、これに基づいて教育の刷新を図り、民心の嚮(むか)う所を明にすることは、教育における緊急の要務である。この非常の時局に際して、教育及び学術に関与する者はその責任の重大なることを自覚し、国体の本義に疑惑を生じるような言葉は厳に戒めなければならない。常にその精華の発揚を念じ、これによって自己の研鑚(さん)に努めるとともに、子弟の教育に励みその任務を達成するようにしなければならない。
 
 昭和12年12月10日、「教育審議会官制」が公布された。それによると、文物の進運及び中外の情勢に鑑(かんが)み、国体を無窮に培うために、教育の内容及び制度を審議して、その刷新振興を図ることを目的とするものであった。
 
 「教育審議会」の答申
 青年学校義務教育制実施に関する件
 国民学校、師範学校及び幼稚園に関する件
 中等教育に関する件
 高等教育に関する件
 社会教育に関する件
 各種学校その他の事項に関する件
 教育行政及び財政に関する件
 
 この答申を基本にして、教育制度の全面的改革が行われ、新しく「国民学校」が設立されている(昭和16年)。
 また、青年学校の義務制(昭和14年)も実施され、戦争の激化とともに、国民学校高等科以上の児童・生徒、学生は戦時非常措置によって、学校での授業は次第に減り、工場や農園に動員されていくようになった。そして空襲の激化、学童集団疎開などの非常事態を経て終戦を迎えたのである。