実業教育の推進

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 昭和初期から終戦までの産業教育は、戦時体制への移行とともに、様々な改革や統制が加えられてきた。
 実業補習学校は、明治26年(1893)「実業補習学校規程」にもとづいて設立されたものでその後、大正9年(1920)の規定改正により、従来の補習から、「職業教育」と「公民教育」に重点が置かれるようになった。
 昭和10年度(1935年度)の区営実業補習学校には次のものがあった。
 
 三光(さんこう)商工学校   白金三光町56  修業年限2年  生徒数150
 芝愛宕商業実務学校      愛宕町2ノ86   修業年限2年  生徒数185[注釈19]
 芝御田(みた)実務専修女学校 通新町14    修業年限2年  生徒数120[注釈20]
 
 さらに、「商業学校規程」による商業学校(実業学校)、東京市赤坂商業学校も設置されている。
 設立された商業学校は、その教育内容に特色があり、近くの高等小学校への進学者の減少をもたらすほどの隆盛をみた。実業学校には、商事要項、商業簿記、商品大意、商業実践、商業作文、作業学科には、タイプライティング、工業図案、商業実践などがあり魅力があったわけである。
 青年訓練所は、大正15年(1926)「青年訓練所令」公布により設置され、中学以上の学校に進学しない勤労青少年に対して、入営までの教育を行うことになった。
 「青年訓練所令」第1条には「青年訓練所ハ青年ノ心身ヲ鍛錬シテ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ以テ目的トス」、第2条には「青年訓練所ニ於テ訓練ヲ受クルコトヲ得ル者ハ概(オオム)ネ十六歳ヨリ二十歳迄ノ男子トス」、また、第5条には「青年訓練所ノ訓練項目ハ修身及公民科、教練、普通学科、職業科トス」とある。
 港区地域の青年訓練所は次のように設置されていた[注釈21]。
 
 東京市立芝第一青年訓練所  芝区通新町14
 東京市立芝第二青年訓練所  芝区愛宕3ノ5
 東京市立麻布青年訓練所   麻布区筓町(こうがいちょう)28
 東京市立赤坂青年訓練所   赤坂区一ツ木町85
 
 しかし、この実業補習学校と青年訓練所は、同年齢の青年を対象としており、目的も似ていることから統合されて青年学校になった。
 戦時体制の強化とともに、工業教育が重視されるようになり、商業学校から工業学校への転換、併合がなされるようになった。これは、昭和18年(1943)の「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によるものである。そのため、商業科が工業科に変更になったり、商業学校が工業学校に転換したりする学校がでてきた。
 戦争の長期化とともに、物資の不足が深刻になってからは、工業生産の重視は一層強化されていった。消費の節約、金物の供出、労働力には学徒も動員させられ、軍需産業最優先の決戦体制に移行した。
 港区地域においても、芝浦地区の工場に多数の学徒が動員され、軍需増産防空防衛へとかりたてられていったのである[図9][図10][図11]。

[図9]職場も戦場(『東京百年史』)


[図10] 戦時下の女性(『写真週報』274号 国立公文書館所蔵)


[図11] 女子産業戦士の体操(毎日新聞社提供)

関連資料:【文書】中学校教育 東京市赤坂商業学校