昭和19年3月、東京都は空襲から児童を守るために、児童の縁故疎開を奨励する方針をとり「学童疎開ニ関スル件」を発した[注釈30]。それによると、
学年末ノ休業期間中ニ学童ノ疎開ヲ行ハムトスルモノ相当多キコトト存ゼラレ候付テハ其ノ輸送ノ円滑ニ資スル為運輸通信省、東京鉄道局ト協議ノ結果転出証明書並ニ国民学校長ノ発行スル学童疎開輸送証明書ヲ提示スル者ニ対シテハ乗車券ノ購入、乗車列車ノ指定等特別ノ便宜取計フコトト相成候条御了知相成度候也 追而(オッテ)証明書様式ニ関シテハ先般開催ノ視学会議ニ於テ配布済ニ付申添候尚学童疎開勧奨ニ当リテハ将来情勢
緩和シ都ノ国民学校へ復籍希望スル場合ニハ必ズ便宜ヲ取計フ旨申添フル様致度為念(ネンノタメ)(『東京都戦災史』)
というように、交通の便宜及び将来復帰についての具体策を指示している。
学童疎開は、昭和19年8月ごろから始められた。国民学校3年以上6年生までが対象とされていた。3区の疎開先は次のとおりである。
芝 区 栃木県 3862名 山梨県 123名
麻布区 栃木県 1826名
赤坂区 三多摩 807名
3区合計 6518名
その後も、集団疎開の児童数は増加し、最大時には、8958名にもなり、空襲の被害から学童の生命を守ることができた[注釈31]。
関連資料:【学校教育関連施設】