残留児童の教育

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 昭和19年(1944)8月ごろから始まった学童の集団疎開のあとに残された児童は、約7500名といわれる(『新修港区史』)。
 そして、激しい空襲のため、学校生活を送ることができず、警報が出ると防空頭巾(ずきん)に身をかためて、コッペパン1個をもらって家へ帰ったという記録が残っている。(東町小学校『目でみる六十年』)
 
 昭和二〇年六月二五日 南海国民学校において、寺子屋式授業開始、出席児童五名、残留教員校長以下四名(芝国民学校)
 
 昭和二〇年六月二〇日 残留児童二二名の教育、芝国民学校が焼け、児童、職員が本校に移った。(南海国民学校)
 
 昭和一九年一二月一日 残留児童の授業は一一時までとする。(麻布国民学校)
 
 このように、残留児童にとって空襲の被害と食糧不足などにより平常の学校生活は不可能であった。
 
関連資料:【学校教育関連施設】