昭和初期は、経済不況や国際関係の悪化などによる思想の混乱を統制し、国策を遂行するために、国体明徴と皇国の道が示され、学校教育にも注入された。そのため大正デモクラシーの教育で開花しかかった児童中心主義の教育は、勢いを失い国家主義の教育へ方向を転換していった。
国体明徴論というのは、文部省教学局編集『国体の本義』(昭和12年)及び『臣民の道』(昭和16年)で述べられていることをもとにして、わが国の国体を説明したものである。
『国体の本義』によると、明治前半の啓蒙(けいもう)時代は、欧化主義と国粋主義の対立があり、思想混迷したが、教育勅語の発布で大道が明示され、方向は確定した。欧化の西洋思想は個人主義である。欧米諸国はそれを基盤として社会、国家を発達させてきたが、個人主義は行き詰まりを生じている。たとえば、ファショ・ナチスはそれをすてて、全体主義、国家主義の立場をとりつつあった。わが国の場合、個人主義は西洋からの借りものにすぎず、真にわが国独自の立場に還(かえ)り、万古不易の国体を闡明(せんめい)し、一切の追随を排して、よく本来の姿を実現しなくてはならないという考え方であった。
更に、西洋思想の根底をなすものは個人主義的人生観で、個人の価値が最高であり、国家は個人の利益保護、幸福増進の手段にすぎないと説明された。皇国の道は、国体明徴論に基づくものであり、それは教育勅語の精神であり、教育の基本方針であるとして、昭和の初めの教育が進められたのである。