国民の錬成をめざす国民学校の教育は、「啓発」よりも「訓練」を重視しなければならないといわれ、学校内でも地域でも、訓練が強化されていった[注釈23]。
桜田国民学校『さくらだ』(昭和16年)をみると、
国民学校に於ても亦(また)然り。今や啓発よりも訓練を重視する点に於て全くその趣を異にする。単なる個人の教育、皮肉に申すならば、地位と名利とを競争する社交的一般の人間の教育であったものが、訓練という名題の登場によって啓発と其の地位を代へて、教育に於けるあらゆる領域に於ける主導的地位を占めるに至ったのである。即ち皇運を扶翼し奉る皇国民の教育には、必然に訓練を要求するからである。
と述べている。
各校の沿革史の中から昭和になってからの訓練的行事をぬき出してみると次の如くである。
赤羽尋常(じんじょう)小学校 非常時避難演習 昭和2年
麻布尋常小学校 ラジオ体操の会 昭和6年
麻布尋常小学校 防空訓練日(昼夜各一回) 昭和13年
筓(こうがい)尋常小学校 全校宮城(きゅうじょう)遙拝 昭和13年
筓尋常小学校 防空訓練 昭和14年
麻布国民学校 少年団訓練 児童誓詞制定 昭和16年
麻布国民学校 岩井錬成道場、強歩大会 昭和17年
筓国民学校 耐寒訓練遠足、剣道寒稽古 昭和17年
青山国民学校 国民学校養護訓練 昭和18年
南山国民学校 相撲場開場 昭和18年
麻布国民学校 全児童、職員乾布摩擦 昭和18年
青山国民学校 耐寒訓練体操 昭和19年
次の作文は、健歩大会の訓練の様子を書いたものである。
「健歩大会」
国民学校生徒の健歩大会の幕は十一月十六日を第一回として切って落された。選ばれた僕等一行二十五名と、女生徒二十六名は、午前七時二十分に校庭に集った。校長先生の訓話を心に入れて必勝の念も強く、八時校門を出た。岸田先生と沼館先生に引率された僕等は、身ごしらへも軽く四谷第五国民学校へ急いだ。晩秋の朝の風はすこし冷たかったが、母がリックサックにつめて下さった握めしの暖かさが背中にほの〴〵と感じられた。四谷第五国民学校は吾桜田の外に四千人の選手が集ったのである。愈々出発の時間が来て一、二、一、二のかけ声もいさましく元気よく校門を出る。
道いく人は或は立どまり或はほゝえんで僕等少国民のたんれんを見送り無言の内にげきれいして下さる。予定のコースを終りほっとした時は実に二三組の生徒を追越してゐたそうだ。五年生としては、一番とのことでその時の嬉しさはたとへようがなかった。(桜田国民学校 五年 昭和一六年)
「俳句」 五年生
秋の日に兵隊ごっこ遊びにけり
朝早く神社へ行って手を合はす
我が兄は御国の楯と征きにけり