戦争の長期化にともない物資の不足、とりわけ食糧の不足は深刻になってきた。昭和16年ごろからは空地を開墾して耕地にする仕事が勤労奉仕として児童にも求められるようになってきた。運動場、校庭のまわりはもちろん道路の端までも開墾し、いも類、まめ類、トウモロコシ、カボチャなどが植えられた。食糧増産の要請は、学校にまでいきわたり、花だんは花の栽培から農作物の栽培になった学校がふえていった。それだけでなく、運動場をせばめて食糧増産に励む様子もみられるようになったのである。例えば昭和16年氷川国民学校では、屋上に農園を作るため地鎮祭をやったという記録が残っている。また昭和18年桜川国民学校では、芝公園テニスコートを借り学校農園を経営したと記録されている。
次に、桜田国民学校の農園経営の例をあげる(昭和16年)。
[図27] 食糧増産・昭和11年(『三光国民学校』)
[図28] 屋上農園・昭和18年氷川国民学校
・日比谷農園経営 市公園課の厚意により、日比谷農園拝借
四月 上旬・馬鈴薯(しょ)植付(五年)
五月 二日・除草(三・四年)
五月一四日・里芋、胡瓜(きゅうり)等
五月三〇日・除草、大根収穫
六月三〇日・馬鈴薯収穫
・芝農園経営
四月二一日・除草(五年)
五月一六日・麻、綿、陸稲植付(六年)
五月二九日・鋤耕(じょこう)奉仕職員
六月 上旬・大豆、いんげん
五月 下旬・朝顔種子蒔
六月 中旬・植替(一・四年)