児童文化活動

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 大正期の新教育思潮による、児童の自由創造を尊重する教育の流れを受け、児童文化活動が盛んになったことが、校報誌、沿革誌などにみられる。特に、児童の主体的な活動による作品に優れたものが残っている。ここでは、二つの作品の一部をみることにしたい。まず、本村尋常小学校の『糸になるまで』であるが[注釈27]、ページ数は152ページで、400字詰原稿用紙に書かれている[図30][図31]。

[図30] 本村尋常小学校『糸になるまで』・昭和11年度


[図31] 同目次

 蚕(かいこ)が幼虫から成虫になり、繭(まゆ)を作り、作った繭を献上するところまで、交代で感想を入れながら記録されている。
 
 五月十一日(月) (晴)
  温度 二十一度 (体長 〇・三糎)
  体色 こげ茶色で体一面に毛が生えてゐる。
  様子 午前十一時から同五十五分まで養蚕掃立式があった。又、氷川神社にも参拝して養蚕がよく出来るやうにおいのりしました。
   桑の葉も林野局保管の帝室御料地の桑の葉をいただくことになった。
  感想  略
 ・五月十九日 (火) 曇
  (温度)一六度 (体長)一・三糎 (体色)背の方はこげ茶色でうすくなって体一面ぶつぶつがある。頭はまだこげ茶である。(様子)ふんの長さは一粍だ。午後小使室へ行ったら蚕の棚がつくってありました。この頃はあまり桑を食べないがしきりに何かしている。(感想)太さは四Bのしん位である。早く大きくなってりっぱなまゆをつくる蚕となるのが待遠しい。
 ・五月三十一日  雨
  (温度)十七度 (体長)約三糎 (体色)頭はこげ茶色で、胸は黄色ですき通っている。(感想)病気の蚕があるのにはかはいそうでなりません。黒くどろどろにとけて、桑の葉にひっつく様子を見ると、何かこの蚕にのますくすりはないものかと考えて見ました。病院があったら、つれて行ってぜひおいしゃさまに、なほしていたゞくのにと思ひました。
 ・六月十九日  雨  四十日目
  今日、第一時間目に繭かきの式が行はれた。山と積まれた、真白な繭を見た時、たゞうれしかった。そして、あの私達がかはいがって来た蚕が、こんなにりっぱな繭をつくったのだと思ふと、何だか、涙がたまって来た。
   繭かきの式[図32]
 一 校長先生の御話
 二 養蚕経過報告
 三 献饌(せん)の繭掻(か)き
 四 作業
 五 感想発表

[図32] 繭かき

 次に『私たちの四之橋』という三光(さんこう)尋常小学校卒業生の兄弟が思い出を綴った小冊子がある[図33]。
 内容は、幼いころの思い出が、地域や家族をとおして語られている。地図やカット、年表も入れてあり、楽しく読めるようになっている。
 この『私たちの四之橋』の目次は次のようになっている。
 
 一 松本屋
 二 若い衆
 三 遊び
 四 関東大震災
 五 迷い子
 六 縁日
 七 病気
 八 大雨
 九  長寿庵
 一〇 まん姉さん
 一一 本郷の伯父
 一二 氷川様のお祭り
 一三 三光小学校
 一四 田舎
 一五 父
 一六 布施やのおやじ
 一七 柔道
 一八 行商人
 一九 清正公とお会式
 二〇 映画館
 二一 だがしや
 二二 せいせき
 二三 多摩ご陵
 二四 大みそかとお正月
 二五 おえんま様
 二六 姉妹
 二七 母
 二八 戦後の岩崎
 二九 根戸の婚礼
 三〇 内地帰還の日
 三一 召集令状
 三二 二、二六事件
 三三 肉屋の若主人
 三四 四の橋点景
 三五 内地帰還のあと
 三六 あとがき

[図33] 『私たちの四之橋』三光尋常小学校 昭和5年度卒業生(椎名信太郎氏提供)

 『私たちの四之橋』から、ほんの一部をぬき出してみよう。
 
 一 松本屋
  (信太郎)幼いころの記憶は六十年のかなたにかすんでしまったけれど、私達兄弟の記憶を持ち寄ってこれから記したいと思います。私達の生れ育った松本屋牛肉店は港区芝白金三光町にある四之橋通りの中程にあっていつも繁昌していました。ひる時や夕方には多勢のお客が来て賑やかでした。両親のほか若い衆が四人か五人居て店売りや注文の配達に忙しく出たり入ったりしていました。銭箱は店の奥の帳場に置いてあり、売上げのお金を遠い所から投込むと「チャリン」と音が響きます。(以下略)
 
関連資料:【文書】小学校教育 本村小学校蚕飼育・観察の記録