麻布区教育会

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 麻布区教育会は、区の教育の普及向上をするために設立され、戦争の末期ごろまで活動していた[注釈11]。
 創立は、明治29年6月、区学務委員の主唱により設立されたものである。
 
 (主な事業)
  夏季施設 昭和七年(一九三二)牧野元次郎の宿舎建設資金壱万円の提供を受け、金沢町町屋の地に校舎を建築した。
  麻布区教育会ニコニコ学園と称し、敷地六八〇坪、木造平家一部二階建、延坪二四七坪二合、児童室六、職員室、医務室、応接室、炊事場、浴室等の設備が整っていた。
  林間学校 盛岡町元高松宮御用地において、昭和六年より毎年実施していた。
  南山プール 昭和六年南山尋常小学校に設置したが、一〇年これを区に寄附している。
  ニコニコ学園、養護臨海団 昭和八年より毎年実施。
 
  昭和十四年の夏八月、待望の高原学園が、その名も床しき箱根仙石原に、はじめて開設されたのは、今年度夏季施設中の一大収穫であった。応募者は予期以上に多かったが、人員に制限があり、心ならずも一部の方々にお断りしなければならなかったことは、誠に遺憾なことであった。僅か十日間の生活ではあったが、都塵を遠く離れ、或る時は押し迫るやうな迫力と、或る時は優美にしてほゝゑみかけるやうな大自然の景観に、朝夕しみじみと接し得た喜びは、何物にも代へがたいものであったと思ふ。(中略)「……九日目は高原生活の最後の日です。朝礼の時、教育会の田中先生の訓示を聞いて、先生がおっしゃられたやうに高原学園で生活した習慣をお家へかへってからも続けようと思ひました。かへる支度をして、夜床にはいってからこの仙石原に点在する家々の一つの山の家、その中に住む先生方、お友達のことが、明日別れると思ふとなつかしまれるのでした。又東京の家に残ってゐる弟のことが思ひ出されました。……」(六女K・O)別れの感傷にひたりながら、将来への決心を語る純情さ。子供達の書き残した感想文の中に、高等学園の香がそこはかとなく漂ふ。
  麻布教育会のはじめての試みであった「高原学園」は、兎に角成功であったと言へよう。今年の夏は更に発展した学園の姿が見られるやう心から祈ってゐる。(筓小学校『かうがい』昭和14年「箱根高原学園記」)
 
関連資料:【文書】教育行政 麻布区教育会
関連資料:【文書】小学校教育 麻布区教育会・臨海団