子どもの組織は子ども会と少年団に分けることができる。子ども会は地域における有志者によってつくられるものであり、子どもたちの自発的な参加と自主的な活動を重視する。
一方、少年団は組織的、計画的な活動が特徴である。
本区における子ども集団の状況を見ると昭和初期までは子ども会が盛んであり、少年団はボーイスカウト連盟が中心であった。
数的には子ども会が多かったのであるが、その様子は、寺社を主な活動の場所として、僧侶、神職、地域の青年たちが指導していた。高輪の保安寺東堂の高橋政兼氏談によれば、大正時代のことではあるが、かなりの寺院で子ども会が開かれていたとのことであり、お話し会、集団あそび、幻燈会、郊外遠足、年中行事への参加等が日曜日ごとに持たれ、地域の子どもたちの大きな楽しみとなっていたようである。
また、町内清掃などの奉仕活動も盛んに行われ、花まつりの子ども行列、祭礼への参加など地域社会に密着した子どもの姿がほうふつと浮びあがる。
しかし、社会全体に軍国主義的な様相が強まるにつれて、出征などによる指導者の不足もあって、満州事変当時には、子ども会活動は低迷するようになっていった。
その一方で小国民育成、国家総動員という国策から、子どもたちを教化集団に組み入れる必要性が強く叫ばれるようになり、小学校を単位とする少年団の結成が各地域で相ついだ。
区内における少年団の組織状況は昭和17年8月1日現在で、芝区20団、麻布区8団、赤坂区6団であった。
少年団結成の趣旨を筓(こうがい)少年団の例で見ると次のとおりである[注釈6]。
筓少年団(昭和七年五月二十七日結団)
趣意
学校の教育は定められた科目と分量により、児童の生活時間の凡そ三分の一の間をしかも六七十人を一教室に集めて其の担任者は知徳を磨き上げることに十全の力を注いでいるわけであります。然しかうした事実は、どうしても知識の教育に偏し易く手の及ばない処も生じ易くなりますと共に徳育に於て一番大切とされてゐる「実行によって習慣づける」といふ機会が少なくなります。しかも世界の有様が「自分だけよければ良い、楽をして多くを得よう」というやうな風に傾いて行って世の為人の為にとか、進んで困難に当って自らを磨くといったやうな意気と力とが減少して来たやうに思はれます。かうした世の有様は大きい力となって児童へも迫り、学校教育の弱点につけ入って益々蔓延(まんえん)しようとしてゐます。加ふるに大都市生活は、文化の利益を受けますと共に、不健康な身体、不健全な思想、或は華美虚栄等の悪い傾向へ直接に影響されることが日一日と深刻になっていきます。かくして社会は憂ふべき度を益々加へて憂ふべき社会へと愈々進みつゝあるのであります。
考へて見ますに自分が生活し得るといふ事は自分以外のすべての物からの援助によってのみ成立つのであります。人々が互に力を協せ共に手をとって自分を進めると共に他をも進めんとする熱意と実行がある所に、利己的な安逸遊惰な行動や不健全な思想道徳があらうはづはなく、そこには穏健平和なる人間性の豊かな社会を見る事が出来るはづであります。そこにこそ真の社会、真の進歩、向上発展があるのだと思はれます。
かうした協力奮闘の愉快、人間愛の精神を、自分自身の肉体を動かし天地自然の懐に抱かれることによって根強くも各個に体得せしめ、一方学校教育と並べて車の両輪となしより以上の自分を育成していくと共によき市民、よき国民として現代に処し最も健全な心と身の所有者たらしめんとするのであり、他面環境の悪風から脱せさせしかも啓培された其の意気と実行力とは進んで環境を善良に指導するに至るべきことを確信して、ここに筓少年団を設立し其の発展を期する次第であります。
少年団の目的はこの趣意から明らかなところであるが、団員は当該小学校の4年生以上の児童で構成し、その活動は「精神の修養」を第一に奉仕活動を中心とした。指導は当該小学校の教師が当たった。
具体的な活動の様子を昭和7年における桜田少年団に見れば次のごとくであった。なお団員の感想文から、このころは、まだ生活にゆとりのあったことが感じとれる(『桜田校報』昭和7年)。
二十四名の団員と指導者四名を有する我桜田少年団は、校友会といふ力強い背景と理解ある御後援の下に誠に都合よい生長を遂げ、完全なる歩みのうちに既に満一ヶ年を経過したのである。その間の活動は今までの本団記事によって尽した筈(はず)であるが、その後他の友団と共に今夏は千葉県清水公園の松林中にキャンプ生活をなし、神代からなる森の神秘、神厳さにうたれ全く素朴の昔に還(かえ)って、人類の始めの剛健な生活をも繰返し、困苦欠乏にたえると共に、完全なる全く我活動をなすの機会と訓練とを与へ得たことを嬉しく思ふ、人はみな暑を海に避ける時藪(やぶ)蚊の多い而も天幕の中に蒸される咎(きゅう)暑と闘ひつゝ自己を磨くといふことは少年団を除いて他に求めることの出来ない修練であらうと思ふ。
人皆が少年団の掟(おきて)の一つである。「笑って困難に当る」の意気あらば如何なる難関の我に襲ふありとも断じて屈することなく本当に笑って之を切り抜けることが出来ることであらう。
とかく文明の進むにつれ人々は自然から離縁され易いものであるが、少年団は出来るだけ素足のまゝで大地を踏むといった態度で何でも大自然を友としてこの中から自己の師を見出さうとするものであるから、到底他に見ることの出来ぬ長所のあるものである。
平生我々が学校の教室で接して居る時と、少年団員として接する時は形式的に団服が同じたといふ以外精神的に弟よ、兄よといふやうな障壁のない接触が出来る、この辺の心境は真にキャンプ生活の体験者のみに成し得る所ではなからうか。
斯(こ)うした精神の訓練をするため本団は努力いたして居るのであるが、最近は満洲国の承認と共に、日満両少年団の提携されるあり。今また防護団として帝都防護の一部を分担されるに及んで、少年団員の責務と精進の弥(いや)が上にも重要なるものであると痛感するものである。
「徳孤ならず 必ず隣あり」この精神を有する人が世の中に一人でも多くなる時、それは社会の一面が澄む所以である。思へば益々少年団の趣旨を発揮し、自分を磨き、世を益せんため、努力と研鑚(さん)とを惜まぬ決心を有するものである。
本団の4月以来の活動を次に摘記して見る。
四月十六日 聯(れん)合少年団定期総会参加
四月二十四日より一週間大島野増実修所に三井指導員入所
四月二十七日 靖国神社臨時大祭に参拝
五月八日 防空大演習と上海事変模擬戦見学
五月廿一日 国技館夏場所見学
五月廿六日、二十八日、二十九日公園利用調査
六月十八日、十九日オリンピック選手派遣費街頭募金
七月五日 夏の村打合会
七月十六日 斎藤内閣総理大臣、中島商工大臣、後藤農林大臣の就任祝賀会に参列
七月二十二日より千葉県野田町清水公園夏の村に参加
八月三十日 酒なし日宣伝
九月一日 東京聯合防護団発団式参加……等。
『キャンプの日記』
五年 男
七月二十二日 晴
今年は野田へ少年団のキャンプ生活に参加した。行った人は僕を入れて四人で、全部で十二人であった。
二十二日朝上野に集合し、七時五分の列車で上野駅を発車した。すみなれた家を後にして汽車は次第に進み、柏駅についた。かしわから電車にのって野田町の清水公園についた。そこで降りキャンプ地についた。キャンプ地は大きな林で気持のよい所である。少し休んで仕事にかかった。天幕をはったりかまどをつくったりして、おいしい夕食の用意をしてたべたのは七時頃、その夜はたのしく天幕の中にねた。
七月二十三日 晴
朝起きて顔を洗って朝はじめてはんごうでごはんを作って食べたその時思ひついたのは、はんごうでたくと実によくたけてうまい。
七月二十四日 晴
今日は午後東条先生が来られていろ〳〵の事を教へて下さった。夜営火をやってねた。
七月二十五日 晴
ハイキングで野田の醬油工場を見にいって、まづその規模の大きいのに驚いた。そして、醬油の作り方をすっかり研究してきた。夜営火をやってねた。
七月二十六日 晴
午後まきがりをやった時、僕は金魚を一匹とった。その夜営火をやった。