市民館

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 大正12年(1923)の関東大震災の傷跡がようやくいえつつあった昭和4年(1929)に始まった世界的な不況の波はわが国にも及び、東京市内には失業者があふれていたといわれる。
 東京市においては、生活困窮者の保護教化活動の拠点として市民館の設置をすすめ、本区関係として白金三光町(さんこうちょう)市民館(芝白金三光町27)を昭和5年4月に開館し、続いて麻布市民館(麻布北白ケ窪町44)を同8年1月、更に赤坂市民館(赤坂檜町(ひのきちょう)16)を同10年2月にそれぞれ開館した。
 設立その本来の目的は隣保事業のためであったが、区民に対する教化活動をも事業として展開し、「市民学院」を開設した。
 教育内容は、法制、経済、社会問題、自然科学、社会学、政治、歴史、英語、体育、音楽など多岐にわたり、大学の教授などを講師に招いて充実した教育活動を行った。
 この講座は勤労者階級を主な対象者としたため、夜間に開設されたが、受講者は区民の各層にわたり、区民の知識、教養の向上に少なからず貢献した。開設の期間、受講者数、経費等はつまびらかではない。
 なお市民館は昭和19年5月に東京都から各区へ移管された[注釈10]。