空襲の激化にともない防空上の必要から、「建物疎開」「人員疎開」「物資疎開」などの措置がとられるようになった。東京都は、昭和18年(1943)3月30日付内務省告示第180号、第181号によって地区を指定し、建物疎開によって空地帯を作り空襲時の被害を局限し、消防、避難活動に資するようにした。また、人員疎開は、まず、縁故疎開から始め、学童疎開にまで広げられていった。昭和20年3月9日の夜から10日の早暁にかけての空襲から、罹災(りさい)者を直ちに集団的に疎開させる方針を定め実施が進められていった。
昭和19年2月13日調査によると、区内人口は、29万1797名、また20年11月1日調査では、9万6604名となり、実に19万5000人の人口激減となったのである。
なお、戦前の戸数は、芝区3万8577戸、麻布区1万9611戸、赤坂区1万1878戸と称されていたがこのうち芝区では、空襲によって2万1863戸(56・5パーセント)、麻布区では1万2590戸(60・4パーセント)、赤坂区では1万406戸(83・7パーセント)が全半焼ないし全半壊した(『港区史』下巻)。
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