学校被災の様子

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 昭和20年(1945)に入ると、多くの学校が焼失している。
 3月10日の空襲で被害を受けた国民学校3校で、続いて、5月25日の空襲で被害を受けた国民学校は、16校に及ぶ[注釈1]。各校の学校日誌や記念誌に次のような記録がみられる[図4]。

[図4] 空襲被災校分布図[注釈2]

 筓(こうがい)国民学校
  大戦の末期、昭和二〇年五月二五日の深夜、わが筓の学びやは、焼夷(い)弾のスコール、天に冲する劫火の真唯中にあり、校庭に渦巻く黒煙、散乱する火の粉、まさに存亡の断崖(がい)に直面したのであった。重要文書を地下壕(ごう)へ、舞いこむ火の粉に燃え出す床の火消しに、走り廻る先生部隊。屋上出口の庇の下で、去来するB29のゆくえを凝視していると、シュル、シュル、シュル、無気味な落下音の尾を曳(ひ)く焼夷弾の掃射に、防火消火の暇もあらばこそ人びとは青山墓地の大地下壕に集結、燃えるに任せた筓の町、青山一帯、一瞬にして炎の大海となる。(『筓 六〇周年記念誌』)
 
 青南国民学校
  昭和二〇年五月二五日(金)晴
 校舎罹(り)災  午後十時半頃ヨリ帝都ニB29来襲市内各所ニ焼夷弾投下 続イテ火災猛烈遂ニ隣家江守邸ヨリ発シタル火災ニヨリ講堂ニ類焼シ全校舎ニ及ブ午後十時半頃ヨリ危険トナル。駐在部隊宿直何レモ一時待避ス学校長ハ二六日午前二時一五分登校折柄復帰セル特別隊ト共ニ消火ニ力メ一階工作室二階一号室~六号室理科室三階裁縫室ヲ消シ止メ類焼ヲ防止スルコトヲ得。
  五月二六日 罹災者収容 (学校日誌より)
 
 御田(みた)国民学校
  敗戦必死の重苦しさは言語に絶していたやさきの二〇年五月二五日の深夜、東京最後の大空襲で伊皿子方面からの火の玉が突風にあおられて高い校舎の屋根の突端に飛びつき、暁部隊の手押しポンプもなんのその、あれあれよと見るうちに燃えひろがっていった。校庭のまん中の防空壕に入れてあった三条公書の「御田学校」や重要書類は助かった。それにしても大突風に吹きあげられて燃えさかり、最後の棟落ちでガッタリいった校舎の最後にわたしは歯ぎしりしながら直立不動で見送った。(御田小学校『九〇周年記念誌』)
 
関連資料:【文書】教育行政 国民学校の戦災状況
関連資料:【学校教育関連施設】