学校教育の対応の実際

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 太平洋戦争の勃発(ぼっぱつ)(昭和16年)とともに、戦争の長期化に耐え、完遂をめざした政策がとられるようになった。国民全体には、「国家総動員法」「大政翼賛会」による統制で戦時体制が強められていった。
 国民学校の誕生 学校教育に対しては、「国民学校令」の制定で「皇国民の錬成」をめざした教育が強化されてきた。
 第5期国定教科書の使用 教育内容も軍国主義的な内容を持つ教科書が使われ、皇国の道に沿った教育が進められた。
 中等諸学校の規定の公布 (昭和18年)皇国の道にのっとる教科目を制定した。
 学徒出陣(昭和18年12月) 徴兵猶予期間の短縮で、学徒の出陣がふえていった。
 学徒動員 昭和16年以後は、食糧増産の必要が高まったため、年間30日以上の授業を勤労作業に振り替えることができるようになった。また、国民学校高等科以上の学徒は、工場に動員されることが次第にふえていった(「学徒勤労令」の公布)。
 高等国民学校の対応 国民学校制度になり、初等科6年 高等科2年となり、区内にあった愛高国民学校ほか5校における勤労動員の実際については、次の青山高等国民学校の沿革誌の記載に明確にされている。
 
  昭和十九年二月十二日 先ニ国民学校上級児童ニ対スル戦時非常措置ニ関スル訓令アリタルニ対シ高等科校長会ヲ養成館ニ於テ開催高等科児童ハ一ヶ年ヲ通シテ六〇日間勤務ニ服スルコトニ決定セリ。
と書かれ、引き続いてどのような勤労を行ったか、次のように伝えている。
 
  昭和十九年三月七日 時局ノ緊迫ニ伴ヒ人手少ナキタメ新聞配達奉仕班ヲ組織シ(町別班)高等科一学年男児童之ニ当レリ。
  昭和十九年五月十六日 高等科男子 日本書籍KKへ勤労奉仕
    〃  六月二一日 高二女 甘藷撰別のため渋谷駅へ出張
    〃  七月一〇日  高等科 疎開家屋廃材搬入作業
    〃  七月二一日 高等科女子 貯金局へ勤労奉仕三〇日間
    〃  九月 四日  高一女 東京航空機KK入所式勤労動員
  昭和二二年三月二五日 青山高等国民学校廃校式
       午后 廃校式 惜別会開催 午後一時開会成大裡に終了
 
 高等科の生徒は、勤労動員で終戦を迎えた様子であった。
 同校は昭和22年3月で廃校になり、4月より新制中学校として発足したため、残された記録を収集することが困難であった。
 決戦教育措置要綱 昭和20年 国民学校初等科を除き、学校における授業を4月から1年間停止することになった。
 学童集団疎開 昭和19年7月、空襲の激化にともない、学童の疎開が行われるようになった。最初は、縁故疎開を奨励していたが、国民学校3年生以上の学童集団疎開が実施されるようになった。
 港区地域においても、学校ごとの学童集団疎開が行われ、出発の様子、疎開地での学習や生活の様子などが、各校や、疎開先の寺、宿舎等に記録が残されている。
 
関連資料:【学校教育関連施設】