空襲の被害による罹災者の待避所や軍事目的のために、昭和20年に入ると学校施設の軍事利用がふえていった各校の沿革誌に記載されているのをみると次のとおりである[注釈3]。
白金国民学校 海軍通信隊、地下室に遺骨安置所
麻布国民学校 校舎を軍隊使用
青山国民学校 赤坂区役所焼失のため、本校屋内体操場に移転した
南桜国民学校 海軍警備隊宿泊開始
筓国民学校 東部第八部隊、第六部隊校舎使用
赤羽国民学校 校舎に海軍あかつき部隊が入る
赤羽国民学校では児童は集団疎開して留守で、海軍のあかつき部隊が入りこんでいた。それをねらいアメリカの戦闘機の機銃掃射が行われたりもした。あるとき、急にジャリジャリと何か非常に重いものを引きずるようなすごい音がしたと思ったら、機銃掃射の銃丸が職員室の窓ガラスをつき破ってとびこみ、職員室をぬけて校長室の廊下のコンクリートの壁にぶつかって止まったことがあった。幸い負傷者はなかったが恐ろしいことであった。(『戦乱と港区』 昭和44年、区立三田図書館)
東洋永和女学院(東洋英和女学院改称)鳥居坂警察署焼失により校舎使用、さらに東京師管区司令部、兵務部に校舎を使用された。
その他休園した幼稚園の園舎を使用した例もある。
戦災を受けた人々の一時の避難所に当てられた所も多くあった。また、食糧の保管、配給の場所になったり、食糧公団等が使用し、疎開児童が復帰してきても、使用を続け、教室が不足になるようなこともみられた。
関連資料:【文書】教育行政 <参考>太平洋戦争中の国民学校施設転用