■戦時疎開学園の開設

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 1 三光(さんこう)国民学校の場合(同校沿革誌より)
 
  昭和一九年六月一日、本校児童の一部六拾名山梨県南巨摩郡身延町の玉屋に集団疎開をなし身延分教場を開設す。
 
 この分教場は、身延学寮として昭和20年11月末まで児童を在寮させたことが記録されている。
 
 2 麻布国民学校の場合(同校沿革誌より)
 
  昭和一九年四月一四日 疎開勧奨印刷物ヲ渡ス
       五月一七日 疎開学園希望者申込打切り
       六月 五日 疎開学園児童出発(荒井先生分一九名)
       七月一二日 校長箱根仙石原疎開学園視察ノタメ出張ス
 
 と書かれてあるが、詳細については明らかにすることができない。
 
 3 乃木国民学校の場合(現檜町(ひのきちょう)小学校)
 戦時中の国民学校児童集団疎開資料の中から関係事項を抜粋すると、
 
  当時赤坂区内国民学校五校の児童四〇を、沼津養護学園に戦時疎開学園として収容していたが、戦況が激しくなり、海岸地帯が危険に頻したので、昭和二十年六月三十日本校の寮に再疎開して来た(当時沼津の学園長が本校の校長川村兼五郎氏であったため)。今まで六年生のいた光明院・西蔵院の二寮が六年の帰京によりあいたのでここに収容した。四、五、六年の男女児童であった。
 
 前述のように、試行的戦時疎開学園は、7月31日限り廃止となったが計画変更になっても終戦後まで継続したもの、再疎開をして、学童集団疎開に合流したものなどいろいろなケースが見られた。
 
関連資料:【文書】小学校教育 赤坂区戦時疎開学園
関連資料:【文書】小学校教育 芝区戦時疎開学園
関連資料:【文書】小学校教育 戦災児学園