■帝都学童集団疎開

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 戦局が厳しくなり、米軍機が本土を空襲するようになると、東京都内の学童を地方へ集団疎開させることは急務となった。
 実施細目によると、
 
 帝都学童ノ疎開先ハ、東京都郡部、埼玉県、群馬県、茨城県、千葉県、栃木県、山梨県、宮城県、静岡県、長野県、福島県、山形県トシ、必要ニ応ジ其ノ範囲ヲ拡張スルコト
 
とある。国民学校疎開児童数については、『東京都戦災誌』に昭和20年6月末現在の都教育局の調べとして、港区地域の様子が記載されている。
 
 芝区  栃木県三八六二名、山梨県一二三名 計三九八五名
 麻布区  栃木県一七二六名
 赤坂区  三多摩八〇七名  三区合計 六五一八名
 
 私立国民学校初等科、東洋永和・聖心・森村・啓明の4校も公立学校と同様に集団疎開を実施した。
 港区地域の学童集団疎開地は、栃木県、東京都多摩地区、山梨県、静岡県、神奈川県であった。(芝区関係[図7][図8][図9]、麻布区関係[図10][図11]、赤坂区関係[図12][図13]、児童内訳[図14])
 このほかに、愛宕国民学校は、昭和19年8月69名集団疎開をし、栃木県、宝積寺、疎開復帰計画書に20年10月25日、他の国民学校と同様に帰京したことは分っているが詳細については不明である。
 戦時中、戦災、疎開、学校内に他団体の同居、校舎全焼、それに伴い廃校というような出来事もあり、学童集団疎開の各校の記録を求める事は、なかなかむづかしい。当時の校長、附添職員、学童、父兄、現地の寺院宿舎の人たちより、残されたものを整理して、この項を記入したものである。疎開の月日は、1年2カ月から1年半だったが、40年を経た今日でも、疎開地を訪れると、そのころの児童の心を伝える物が大事に保存されている。今を支える人達を育てた誇りがみられる[注釈4]。

[図7] 国民学校児童疎開表・芝区(『港区史』昭和34年3月調査参考)


[図8] 芝区学童集団疎開先(塩原方面)


[図9] 芝区学童集団疎開地(鬼怒川・川治方面)


[図10] 国民学校児童疎開表・麻布区(昭和20年4月1日調査。縁故疎開、残留児童数は『港区史』下巻による)


[図11] 麻布区学童集団疎開地(足利・佐野・栃木方面)


[図12] 国民学校児童疎開表・赤坂区(昭和19年9月の赤坂国民学校所蔵の公文書綴より)


[図13] 赤坂区学童集団疎開地(北多摩・南多摩方面)


[図14] 児童内訳

関連資料:【文書】小学校教育 集団疎開受け入れ協力
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